条約・国際会議史は、戦争がどのように終わり、そのあとの国際秩序がどう組み直されたかを追うテーマです。ウェストファリア条約、ウィーン会議、ヴェルサイユ条約のように、大きな戦争のあとには講和の会議が開かれ、国境や大国どうしの力の配分が決め直されてきました。
入試では、条約の名前と「どの戦争の講和か」の組み合わせや、領土の移り変わりがよく問われます。パリ条約は1763年・1783年・1856年に、ベルリン会議は1878年と1884〜85年にあり、同じ名前が何度も出てくるのもこの分野のやっかいなところです。
この記事では、1648年のウェストファリア条約から1989年のマルタ会談までを、「戦争の講和と国際秩序の変化」という軸で整理します。国際連盟・国際連合のしくみはほかの記事に任せ、講和条約・協商・首脳会談・軍縮条約を中心に見ていきます。

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| この記事で分かること | 該当する節 |
|---|---|
| 1648年から1989年までの主な条約と国際会議の流れ | まず全体像 |
| 各条約が結ばれた理由と、その後への影響 | 時代ごとに詳しく見る |
| 同じ名前の条約・会議の見分け方 | 比べて覚える |
| 条約と戦争・国・人物の組み合わせで誤りやすい点 | 入試で狙われるポイント |
| 論述で使える要点と用語 | 論述で使える要点 |
まず全体像:主な条約と国際会議を一枚でつかむ
約340年の流れは、5つの段階に分けると見通しがよくなります。主権国家が並び立つしくみが生まれた17〜18世紀、大国の協調で秩序を保とうとした19世紀前半、列強がバルカン・アフリカ・アジアで利害を調整した19世紀後半から20世紀初め、二つの世界大戦とその講和、そして冷戦期の会議と軍縮です。
下の年表では、転換点になった条約と会議を選んで並べました。「戦争・できごと」の列と結びつけながら読んでください。


| 年 | 条約・会議 | 戦争・できごと | ポイント |
|---|---|---|---|
| 1648年 | ウェストファリア条約 | 三十年戦争 | 主権国家体制の出発点 |
| 1689年 | ネルチンスク条約 | 清とロシアの衝突 | 両国の国境を定める |
| 1713年 | ユトレヒト条約 | スペイン継承戦争 | イギリスが海外の拠点を広げる |
| 1763年 | パリ条約 | 七年戦争 | フランスが北アメリカの領土をほぼ失う |
| 1783年 | パリ条約 | アメリカ独立戦争 | アメリカ合衆国の独立を承認 |
| 1814〜15年 | ウィーン会議 | ナポレオン戦争 | 正統主義と勢力均衡 |
| 1842年 | 南京条約 | アヘン戦争 | 清が5港を開く |
| 1856年 | パリ条約 | クリミア戦争 | ロシアの南下を阻む |
| 1860年 | 北京条約 | アロー戦争 | 天津の開港。沿海州がロシア領に |
| 1878年 | ベルリン会議 | 露土戦争 | サン=ステファノ条約を修正 |
| 1884〜85年 | ベルリン会議 | アフリカ分割 | 分割の原則を決める |
| 1895年 | 下関条約 | 日清戦争 | 清が朝鮮の独立を認める |
| 1905年 | ポーツマス条約 | 日露戦争 | アメリカ大統領が仲介 |
| 1919年 | ヴェルサイユ条約 | 第一次世界大戦 | ヴェルサイユ体制 |
| 1921〜22年 | ワシントン会議 | 太平洋・中国問題、軍縮 | ワシントン体制 |
| 1938年 | ミュンヘン会談 | ズデーテン問題 | 英仏の宥和政策 |
| 1943〜45年 | 連合国の首脳会談 | 第二次世界大戦 | 戦争指導と戦後構想 |
| 1989年 | マルタ会談 | 冷戦の終わり | 米ソが冷戦の終結を宣言 |
時代ごとに詳しく見る
講和条約は、戦争の勝ち負けをそのまま書き写したものではありません。勝った国どうしの利害、負けた国の抵抗、仲介した国のねらいが重なって決まります。誰が会議を動かしたのかに注目しながら読んでいきましょう。
17世紀:ウェストファリア条約と主権国家体制
三十年戦争(1618〜48年)は、ドイツの宗教対立から始まり、やがてフランスやスウェーデンが加わる国際戦争になりました。講和会議は1645年から、ドイツ北西部のウェストファリア地方にあるミュンスターとオスナブリュックに分かれて開かれ、1648年にウェストファリア条約が結ばれました。
とくに大切なのは、ドイツの諸侯がそれぞれの領土についてほぼ完全な主権を認められたことです。これによって神聖ローマ帝国は名目だけの存在になり、ヨーロッパで強い力を持っていたハプスブルク家の勢力も後退しました。


| 項目 | 内容 |
|---|---|
| フランス | アルザスにあったハプスブルク家の領地・権利と、メッス・トゥール・ヴェルダンの3つの司教領を得る |
| スウェーデン | 西ポンメルンやブレーメンなどを得る |
| 独立の承認 | スイスとオランダの独立が正式に認められる |
| ドイツの諸侯 | 領土についてほぼ完全な主権を認められる |
| 宗教 | アウクスブルクの和議を確認したうえで、カルヴァン派も認められる |
こうして、主権を持つ国家が並び立ち、条約で互いの関係を調整する主権国家体制がヨーロッパに成立しました。
18世紀:ユトレヒト条約とパリ条約(1763年・1783年)
18世紀の講和条約では、海の向こうの植民地も取り引きの対象になりました。その中で、もっとも多くの利益を得たのがイギリスです。
スペイン継承戦争(1701〜14年)は、ルイ14世の孫がフェリペ5世としてスペイン王になったことに、イギリス・オランダ・オーストリアが反対して起こりました。1713年のユトレヒト条約では、フランスとスペインが合同しないことを条件に、フェリペ5世の王位が認められました。翌1714年のラシュタット条約では、オーストリアがスペイン領ネーデルラントを得ています。
七年戦争(1756〜63年)は、ヨーロッパではオーストリアとプロイセンの戦いでしたが、同じころ北アメリカではイギリスとフランスがフレンチ=インディアン戦争を戦っていました。1763年のパリ条約で、フランスは北アメリカ大陸の領土をほぼ失い、インドでもわずかな都市を除いて植民地を手放しました。その20年後、1783年のパリ条約では、今度はイギリスがアメリカ合衆国の独立を認めることになります。
| 条約 | 領土の動き |
|---|---|
| ユトレヒト条約(1713年) | イギリスがスペインからジブラルタルとミノルカ島を、フランスからニューファンドランド・アカディア・ハドソン湾地方を得る |
| パリ条約(1763年) | イギリスがフランスからカナダとミシシッピ川以東のルイジアナを、スペインからフロリダを得る。スペインはフランスからミシシッピ川以西のルイジアナを得る |
| パリ条約(1783年) | ミシシッピ川以東の土地がアメリカ合衆国の領土になる |
19世紀前半:ウィーン会議とウィーン体制
フランス革命とナポレオン戦争で乱れた秩序を立て直すため、1814年9月から1815年6月までウィーン会議が開かれました。会議を主宰したのはオーストリアのメッテルニヒで、実際の決定はオーストリア・プロイセン・ロシア・イギリスの4大国が主導しました。各国の要求がぶつかって話し合いは長引き、「会議は踊る、されど進まず」と皮肉られましたが、ナポレオンがエルバ島を脱出すると妥協が進み、1815年6月にウィーン議定書が調印されました。
会議の原則は2つあります。フランス代表のタレーランが唱えた正統主義は、革命前の君主や支配を正しいものとして元に戻す考え方です。もう一つの勢力均衡は、一つの国だけが強くなりすぎないよう、大国どうしの力をつり合わせる考え方です。




| 国・地域 | 主な決定 |
|---|---|
| イギリス | セイロン島とケープ植民地を得る |
| オランダ | 南ネーデルラント(ベルギー)をあわせる |
| プロイセン | ラインラントとザクセンの北半分を得る |
| オーストリア | ロンバルディアとヴェネツィアを得る |
| ロシア | ポーランドの大部分を得て、皇帝がポーランド王を兼ねる |
| スイス・ドイツ | スイスの永世中立。ドイツ諸邦はドイツ連邦をつくる |
こうして生まれたウィーン体制は、神聖同盟や四国同盟に支えられ、自由主義や民族主義の運動をおさえつけました。しかし、1830年と1848年の革命で大きくゆらぎ、崩れていきます。
19世紀後半:パリ条約(1856年)とベルリン会議(1878年)
19世紀後半の大きな焦点は、弱まったオスマン帝国の領土をめぐる問題でした。南へ勢力をのばそうとするロシアの南下政策を、イギリスやオーストリアがどうおさえるかが、条約の大きなテーマになります。
クリミア戦争(1853〜56年)でロシアはトルコ・イギリス・フランス・サルデーニャに敗れ、1856年のパリ条約で、トルコの領土の保全、黒海の中立化、ドナウ川の自由な航行などが決められました。ロシアの南下は、ここでいったん止められます。
ロシアは1877〜78年の露土戦争に勝つと、1878年3月のサン=ステファノ条約で、黒海からエーゲ海に及ぶ広いブルガリアを自国の影響下に置こうとしました。これにイギリスとオーストリアが強く反発したため、ドイツのビスマルクが仲介して、同じ年の6〜7月にベルリン会議が開かれました。


| 項目 | サン=ステファノ条約(1878年3月) | ベルリン条約(1878年7月) |
|---|---|---|
| ブルガリア | 広い領土の公国としてロシアの影響下に | 領土を縮小し、オスマン帝国の宗主権のもとの自治国に |
| ルーマニア・セルビア・モンテネグロ | 独立 | 独立が認められる |
| オーストリア・イギリス | なし | オーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナの行政権、イギリスがキプロス島を得る |
ベルリン会議でロシアの南下政策は挫折し、ロシアとドイツ・オーストリアの関係は冷えこみました。バルカン半島のスラヴ系の人々の不満も残り、この地域はのちの国際対立の火種になります。
帝国主義の時代:アフリカ分割のベルリン会議と英仏協商・英露協商
19世紀の終わりが近づくと、会議の舞台はヨーロッパの外へ広がりました。アフリカをめぐる列強の対立を調整するため、ビスマルクの提唱で1884年11月から翌年2月まで再びベルリンで国際会議が開かれ、14か国が参加しました。ベルギー国王の組織によるコンゴ盆地の統治が認められてコンゴ自由国が生まれ、アフリカの沿岸部を新たに併合するときの原則も定められました。
20世紀に入ると、列強の組み合わせが変わります。植民地で長く争ってきたイギリスとフランスは、ドイツの進出に対抗するため1904年に英仏協商を結びました。日露戦争でロシアが敗れたあとの1907年には、英露協商も成立します。
| 結びつき | 年 | 主な内容 |
|---|---|---|
| 露仏同盟 | 1891年〜 | フランスとロシアが結びつく |
| 英仏協商 | 1904年 | エジプトでのイギリスの優越と、モロッコでのフランスの優越を互いに認める |
| 英露協商 | 1907年 | イランの北部をロシア、南部をイギリスの勢力範囲とし、アフガニスタンをイギリスの勢力範囲とする |
露仏同盟と2つの協商が重なって、イギリス・フランス・ロシアの三国協商が形づくられました。これがドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟(1882年)と向き合い、第一次世界大戦へ向かう対立の構図をつくりました。
東アジア(1):ネルチンスク条約から南京条約・北京条約へ
清が初めて条約を結んだヨーロッパの国は、ロシアでした。黒竜江(アムール川)方面へ進出したロシアと衝突したのち、康熙帝の時代の1689年にネルチンスク条約が結ばれ、アルグン川と外興安嶺を境とする国境が決まりました。両国が対等な立場で結んだ条約です。1727年には雍正帝の時代にキャフタ条約が結ばれ、モンゴル方面の国境と交易の場所が定められました。
19世紀には、条約の性格が大きく変わります。アヘン戦争(1840〜42年)に敗れた清は、1842年にイギリスと南京条約を結び、香港島の割譲、広州・福州・厦門・寧波・上海の5港の開港、公行の廃止、賠償金の支払いを認めました。翌1843年の五港通商章程と虎門寨追加条約では、領事裁判権・最恵国待遇・関税の協定など清に不利な条項がはっきり定められ、不平等条約の始まりとなりました。1844年には、アメリカと望厦条約、フランスと黄埔条約も結ばれています。
アロー戦争(1856〜60年)のさなかの1858年、清はイギリス・フランス・アメリカ・ロシアと天津条約を結びました。しかし批准を拒んで戦いが再開し、英仏軍は北京を占領します。1860年の北京条約で、清は天津条約の内容を認めたうえ、天津の開港や九竜半島南部のイギリスへの割譲を受け入れました。ロシアは1858年のアイグン条約で黒竜江以北を領土とし、1860年の北京条約では講和を仲介した見返りに沿海州を手に入れました。


| 条約 | 年 | 相手 | 主な内容 |
|---|---|---|---|
| ネルチンスク条約 | 1689年 | ロシア | アルグン川と外興安嶺を国境とする |
| キャフタ条約 | 1727年 | ロシア | モンゴル方面の国境と交易場を定める |
| 南京条約 | 1842年 | イギリス | 香港島の割譲、5港の開港、公行の廃止 |
| 天津条約 | 1858年 | 英・仏・米・露 | 外国使節の北京駐在、キリスト教布教の自由、開港場の追加 |
| アイグン条約 | 1858年 | ロシア | 黒竜江以北をロシア領、ウスリー川以東を共同管理とする |
| 北京条約 | 1860年 | 英・仏・露 | 天津の開港、九竜半島南部をイギリスへ、沿海州をロシアへ |
東アジア(2):下関条約とポーツマス条約
日清戦争の講和である1895年の下関条約で、清は朝鮮の独立を認め、遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲と賠償金2億両の支払いを受け入れました。しかし調印の直後、ロシア・ドイツ・フランスが遼東半島を清に返すよう求め(三国干渉)、日本はこれに応じました。日露戦争の講和である1905年のポーツマス条約は、アメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトの仲介で結ばれました。どちらの条約にも、当事国以外の列強が深く関わっています。
| 項目 | 下関条約(1895年) | ポーツマス条約(1905年) |
|---|---|---|
| 朝鮮(韓国)について | 清が朝鮮の独立を認める | ロシアが韓国における日本の優越権を認める |
| 領土 | 遼東半島(三国干渉で返還)・台湾・澎湖諸島 | 樺太の北緯50度以南 |
| そのほか | 賠償金2億両、沙市・重慶・蘇州・杭州の開港 | 遼東半島南部の租借権と長春以南の鉄道の権利を譲る。賠償金はなし |
第一次世界大戦後:ヴェルサイユ体制とワシントン体制
1919年1月から開かれたパリ講和会議では、アメリカ大統領ウィルソンの十四か条が原則とされました。しかし会議を動かしたのはウィルソン、イギリスのロイド=ジョージ、フランスのクレマンソーで、英仏の主張によって原則は大きく修正され、敗戦国は会議に参加できませんでした。
同年6月、連合国とドイツの間でヴェルサイユ条約が調印されました。ドイツはアルザス・ロレーヌをフランスに返し、すべての植民地を失い、軍備の制限、ラインラントの非武装化、賠償金の支払いを課されました。賠償の総額は1921年に1320億金マルクと決まります。条約の第1編は国際連盟規約で、連盟のしくみは国際機構の記事で扱います。


| 条約 | 年 | 相手国 | ポイント |
|---|---|---|---|
| ヴェルサイユ条約 | 1919年 | ドイツ | 植民地の喪失、軍備制限、賠償 |
| サン=ジェルマン条約 | 1919年 | オーストリア | ドイツとの合併の禁止 |
| ヌイイ条約 | 1919年 | ブルガリア | 領土の割譲と軍備制限 |
| トリアノン条約 | 1920年 | ハンガリー | 国土がおよそ3分の1に |
| セーヴル条約 | 1920年 | オスマン帝国 | 領土の割譲など厳しい内容 |
| ローザンヌ条約 | 1923年 | トルコ | ムスタファ=ケマルの勝利を受けてセーヴル条約に代わる |
アジア・太平洋では、アメリカ大統領ハーディングの提唱で、1921年11月から翌年2月までワシントン会議が開かれました。ここで結ばれた3つの条約が、ワシントン体制と呼ばれる秩序の土台になりました。
| 条約 | 参加国 | 主な内容 |
|---|---|---|
| 四か国条約 | 米・英・日・仏 | 太平洋の島々の現状維持。日英同盟は廃棄 |
| 九か国条約 | 米・英・日・仏・伊など9か国 | 中国の主権・独立・領土の尊重と、門戸開放・機会均等 |
| 海軍軍備制限条約 | 米・英・日・仏・伊 | 主力艦の保有比率を米英5、日本3、仏伊1.67とする |
1920年代〜第二次世界大戦:協調から戦争、そして連合国の首脳会談へ
1925年のロカルノ条約では、ドイツとフランス・ベルギーの国境の現状維持とラインラントの非武装が確認され、イギリスとイタリアがこれを保障しました。この条約は1926年のドイツの国際連盟加盟へとつながります。1928年には、フランス外相ブリアンとアメリカ国務長官ケロッグの提唱で、15か国が不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約)に調印しました。国家の政策の手段としての戦争を否定した点で画期的でしたが、違反国への制裁の規定はありませんでした。
1930年代に入ると、協調の枠組みは崩れます。ドイツは1935年にヴェルサイユ条約の軍備制限を破棄し、1936年にはロカルノ条約も破棄してラインラントに軍を進めました。1938年9月のミュンヘン会談で、イギリスのチェンバレンとフランスのダラディエは、ヒトラーの求めるチェコスロヴァキアのズデーテン地方の割譲を認めます。これが英仏の宥和政策の代表例です。1939年8月には独ソ不可侵条約が結ばれ、秘密議定書で東ヨーロッパの勢力圏が分けられました。その直後、ドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が始まります。


大戦中、連合国の首脳は会談を重ね、戦争の進め方と戦後の構想を話し合いました。どの会談にどの国が出たかは、正誤問題でよく問われます。


| 会談 | 年 | 参加国 | 主な内容 |
|---|---|---|---|
| カイロ会談 | 1943年 | 米・英・中 | 対日戦の方針(カイロ宣言) |
| テヘラン会談 | 1943年 | 米・英・ソ | 北フランス上陸作戦。ソ連が対日参戦を約束 |
| ヤルタ会談 | 1945年2月 | 米・英・ソ | ドイツの分割占領。秘密協定でソ連の対日参戦 |
| ポツダム会談 | 1945年7〜8月 | 米・英・ソ | ドイツの戦後処理。日本にはポツダム宣言 |
ポツダム宣言は、会談に加わっていなかった中国の同意を得て米・英・中の名で発表され、8月8日に対日参戦したソ連ものちに加わりました。
冷戦期:サンフランシスコ平和条約からマルタ会談まで
1951年、サンフランシスコで日本と連合国48か国との平和条約が調印されました。ソ連・ポーランド・チェコスロヴァキアは調印せず、中国も講和の相手に含まれませんでした。このとき同時に、日米安全保障条約も結ばれています。
1954年のジュネーヴ会議ではインドシナ戦争の休戦協定が結ばれ、北緯17度線が暫定的な軍事境界線とされました。同じ年、中国の周恩来とインドのネルーは平和五原則を確認します。翌1955年にはインドネシアのバンドンでアジア=アフリカ会議が開かれ、29か国が平和五原則を発展させた平和十原則を発表しました。
核兵器については、1962年のキューバ危機のあと、1963年に米英ソが地下実験を除く核実験を禁じる部分的核実験禁止条約に調印しました。1968年には核拡散防止条約が成立し、1987年には米ソが中距離核戦力(INF)全廃条約で、配備ずみの核兵器の廃棄に初めて合意しました。そして1989年12月、ベルリンの壁の崩壊の翌月に、アメリカのブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフ書記長が地中海のマルタ島で会談し、冷戦の終結を宣言しました。
比べて覚える
この分野でまず整理したいのが、同じ名前の条約と会議です。名前だけで判断せず、「年」と「何の講和か」をセットにして区別しましょう。
| 名前 | 年 | 戦争・議題 | 主な内容 |
|---|---|---|---|
| パリ条約 | 1763年 | 七年戦争 | イギリスがカナダとミシシッピ川以東のルイジアナを得る |
| パリ条約 | 1783年 | アメリカ独立戦争 | アメリカ合衆国の独立を認める |
| パリ条約 | 1856年 | クリミア戦争 | 黒海の中立化 |
| ベルリン会議 | 1878年 | 露土戦争の処理 | サン=ステファノ条約を修正 |
| ベルリン会議 | 1884〜85年 | アフリカ分割 | コンゴ自由国の成立 |
次に、ナポレオン戦争後のウィーン会議と、第一次世界大戦後のパリ講和会議を比べます。どちらも戦勝国が中心になって秩序をつくりましたが、敗戦国の扱いが大きく違います。
| 項目 | ウィーン会議(1814〜15年) | パリ講和会議(1919年) |
|---|---|---|
| 中心人物 | メッテルニヒ(主宰) | ウィルソン・ロイド=ジョージ・クレマンソー |
| 原則 | 正統主義と勢力均衡 | 十四か条(英仏の主張で修正) |
| 敗戦国 | フランスも参加し、タレーランが発言力を確保 | ドイツなど敗戦国は参加できず |
| 体制がゆらいだきっかけ | 1830年と1848年の革命 | ドイツの軍備制限の破棄とラインラント進駐 |
入試で狙われるポイント
正誤問題では、条約と戦争、会議と人物の組み合わせをずらした選択肢がよく出ます。左の列のような文を見たら、すぐに誤りの箇所を指摘できるようにしておきましょう。
| 誤りやすい記述 | 正しい内容 |
|---|---|
| ウェストファリア条約は七年戦争の講和条約である | 三十年戦争の講和条約。七年戦争の講和は1763年のパリ条約 |
| 1783年のパリ条約で、イギリスはフランスからカナダを得た | カナダを得たのは1763年。1783年はアメリカ合衆国の独立の承認 |
| ウィーン会議で正統主義を唱えたのはメッテルニヒである | 正統主義はタレーラン。メッテルニヒは会議を主宰した |
| 1878年のベルリン会議は、イギリスの仲介で開かれた | ドイツのビスマルクが仲介した |
| ネルチンスク条約は、清がイギリスと結んだ条約である | 清がロシアと結んだ対等な条約 |
| 北京条約で、ロシアは黒竜江以北を得た | 黒竜江以北はアイグン条約。北京条約では沿海州 |
| 四か国条約で、中国の門戸開放が定められた | 門戸開放は九か国条約 |
| ポツダム宣言は、米・英・ソの名で発表された | 米・英・中の名で発表され、ソ連はのちに加わった |
順序の問題では、「南京条約(1842年)→天津条約・アイグン条約(1858年)→北京条約(1860年)」と、「ロカルノ条約(1925年)→不戦条約(1928年)→ミュンヘン会談(1938年)→独ソ不可侵条約(1939年)」の2つの流れを、年号とあわせて言えるようにしておくと安心です。
論述で使える要点
論述では、条約の中身を並べるだけでなく、「その条約で何が変わり、次に何が起きたか」をつなげて説明することが求められます。
例1「ウィーン体制」(130字程度):ナポレオン戦争後、メッテルニヒが主宰したウィーン会議は、タレーランの唱えた正統主義と大国の勢力均衡を原則に領土を再編した。成立したウィーン体制は神聖同盟などに支えられて自由主義・民族主義の運動をおさえたが、1830年と1848年の革命で崩れた。
例2「戦間期の協調と崩壊」(150字程度):ヴェルサイユ条約でドイツに厳しい条件が課される一方、ワシントン会議の諸条約やロカルノ条約、不戦条約によって協調が進んだ。しかし1930年代にドイツは軍備制限とロカルノ条約を破棄し、ミュンヘン会談での宥和政策を経て、独ソ不可侵条約の直後に第二次世界大戦が始まった。
| テーマ | 入れるべき用語 |
|---|---|
| 主権国家体制の成立 | 三十年戦争、ウェストファリア条約、諸侯の主権、スイス・オランダの独立 |
| ウィーン体制 | メッテルニヒ、タレーラン、正統主義、勢力均衡、神聖同盟 |
| ロシアの南下政策 | クリミア戦争、パリ条約(1856年)、サン=ステファノ条約、ビスマルク |
| 清と列強の条約 | 南京条約、虎門寨追加条約、領事裁判権、天津条約、北京条約、アイグン条約 |
| 戦間期の協調と崩壊 | ワシントン会議、ロカルノ条約、不戦条約、ミュンヘン会談、宥和政策 |
確認問題
条約・国際会議史に出てきた用語を、一問一答で確かめましょう。答えはすべて本文に出てきた語句です。年号と「何の講和か」をセットで思い出しながら解いてください。
- 1三十年戦争の講和として1648年に結ばれた条約は?スイスとオランダの独立が正式に認められた
- 2ウェストファリア条約によって成立した、主権を持つ国家が並び立つしくみを何という?ドイツの諸侯もほぼ完全な主権を認められた
- 3スペイン継承戦争の講和として1713年に結ばれた条約は?イギリスがジブラルタルなどを得た
- 4ウィーン会議でタレーランが唱えた、革命前の支配を元に戻す考え方は?もう一つの原則は勢力均衡
- 5クリミア戦争の講和として1856年に結ばれ、黒海の中立化を定めた条約は?ロシアの南下はいったん止められた
- 61878年のベルリン会議を仲介したドイツの政治家は?サン=ステファノ条約が修正された
- 71689年に清とロシアが結び、アルグン川と外興安嶺を国境とした条約は?両国が対等な立場で結んだ
- 8アヘン戦争の講和として1842年に清とイギリスが結んだ条約は?香港島の割譲と5港の開港が決まった
- 91858年に清とロシアが結び、黒竜江以北をロシア領とした条約は?沿海州は1860年の北京条約でロシア領になった
- 10日露戦争の講和として1905年に結ばれた条約は?セオドア=ローズヴェルトが仲介した
- 11ワシントン会議で結ばれ、中国の門戸開放を定めた条約は?日英同盟の廃棄は四か国条約
- 121938年、ズデーテン地方のドイツへの割譲を認めた会談は?英仏の宥和政策の代表例
- 131989年に米ソの首脳が冷戦の終結を宣言した会談は?地中海のマルタ島で開かれた
数日あけてから、もう一度この一覧に戻ってきてください。
ほかの時代の用語も確かめたいときは、世界史一問一答で地域や時代を混ぜて解いてみてください。
世界史 条約・国際会議史の内容をまとめて復習できる解説つきの問題集(PDF・全19問)を用意しました。下のファイルをダウンロードして、印刷して使ってください。
テーマ史の勉強の進め方
通史では、条約はそれぞれの戦争の結末として一つずつ登場するため、名前と年号だけを覚えて終わりにしがちです。通史を学んだあとで条約だけを並べ直すと、「ある講和で生まれた秩序が次の戦争で壊れ、次の講和で組み直される」という連続した流れが見えてきます。
| 段階 | やること | 目安 |
|---|---|---|
| 1 | 通史で、各戦争とその講和条約を一度学ぶ | 近現代史までひととおり終えたあと |
| 2 | 年表で、条約と戦争の組み合わせを声に出して確認する | 1回10〜15分 |
| 3 | 同じ名前の条約の違いを白紙に書き出す | 書けなかった欄に印をつける |
| 4 | ウィーン体制や戦間期の流れを150字でまとめる | 数日おいて繰り返す |
通史とテーマ史をどの順番で進めればいいか、独学で間に合うかの判定方法は、世界史は独学で間に合う?で詳しく解説しています。論述の添削を頼める家庭教師やオンライン塾の選び方もまとめています。
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まとめ
1648年から1989年までの条約と国際会議は、戦争のたびに国際秩序をつくり直してきた記録です。ウェストファリア条約で主権国家体制が生まれ、ウィーン会議で大国の協調による秩序が整えられ、ヴェルサイユ条約とワシントン会議で大戦後の体制がつくられました。そして冷戦は、マルタ会談で終わりを告げました。
| 段階 | 中心となる条約・会議 | 次の段階へ移った理由 |
|---|---|---|
| 主権国家体制の成立 | ウェストファリア条約、ユトレヒト条約、パリ条約(1763年) | フランス革命とナポレオン戦争で秩序が崩れた |
| 大国の協調 | ウィーン会議、パリ条約(1856年)、ベルリン会議(1878年) | 1830年と1848年の革命でウィーン体制が崩れた |
| 列強の利害調整 | ベルリン会議(1884〜85年)、清との諸条約、英仏協商・英露協商 | 三国協商と三国同盟の対立が深まった |
| 世界大戦とその講和 | ヴェルサイユ条約、ワシントン会議、ロカルノ条約、連合国の首脳会談 | 戦後処理をめぐって米英とソ連の対立が深まった |
| 冷戦と軍縮 | サンフランシスコ平和条約、アジア=アフリカ会議、核軍縮の条約 | マルタ会談で冷戦の終結が宣言された |
まずは年表で戦争と条約の組み合わせをつかみ、次に同じ名前の条約を区別し、最後に論述の要点を自分の言葉で書いてみてください。条約を「秩序のつくり直し」として読めるようになると、近現代史の流れが一本につながります。










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