キリスト教史は、古代ローマから中世ヨーロッパ、宗教改革の時代まで、世界史の教科書のいくつもの章にまたがって登場するテーマです。公会議、教皇、皇帝、宗教改革者と、似た名前や似た出来事が多いため、通史で一度学んだだけでは知識が散らばってしまいがちです。
入試では、「ミラノ勅令と国教化はどの皇帝か」「どの公会議でどの説が異端とされたか」といった組み合わせの正誤問題が定番です。東西教会が分かれた理由や、教皇権が強まってから弱まるまでの流れを説明させる論述問題もよく出されます。
この記事では、キリスト教の成立から1598年のナントの王令までを一続きの流れとして整理します。信仰の内容は信者がどう信じているかという形で紹介し、歴史上の事実と教科書で一般的な説明にしぼって解説します。

最後にこの記事の内容をまとめた確認プリントもあります!最後まで読み、プリントで復習してこの範囲を完璧にしましょう!
| この記事で分かること | 該当する節 |
|---|---|
| 成立から宗教戦争までの流れ | まず全体像 |
| 公認・国教化・東西分裂・宗教改革の因果 | 時代ごとに詳しく見る |
| ルター派・カルヴァン派・イギリス国教会の違い | 比べて覚える |
| 皇帝と年号、公会議と異端の組み合わせ | 入試で狙われるポイント |
| 論述で使える要点と用語 | 論述で使える要点 |
まず全体像:キリスト教の流れを一枚でつかむ
キリスト教の歴史は、5つの段階に分けると整理しやすくなります。ローマ帝国の中で生まれて迫害を受けた段階、公認されて国の宗教となった段階、教会が東西に分かれた段階、西ヨーロッパで教皇権が頂点に達してから衰えた段階、そして宗教改革で西の教会も分かれた段階です。
下の年表では、年号ごと問われやすい出来事を並べました。まず「ポイント」の列を上から読み、教会と世俗の権力の関係がどう動いたかをつかんでください。


| 時代 | 年号 | できごと | ポイント |
|---|---|---|---|
| ローマ帝国 | 1世紀前半 | イエスの活動と刑死 | 弟子たちがイエスを救世主と信じる |
| ローマ帝国 | 64年 | ネロ帝の迫害 | 大火の罪をキリスト教徒に負わせる |
| ローマ帝国 | 303年 | ディオクレティアヌス帝の大迫害 | 帝国全体での迫害 |
| ローマ帝国 | 313年 | ミラノ勅令 | コンスタンティヌス帝が公認 |
| ローマ帝国 | 325年 | ニケーア公会議 | アリウス派を異端に |
| ローマ帝国 | 392年 | ほかの宗教を禁止 | テオドシウス帝が国教化 |
| ローマ帝国 | 431年 | エフェソス公会議 | ネストリウス派を異端に |
| ローマ帝国 | 451年 | カルケドン公会議 | 単性論を異端に |
| ビザンツ帝国 | 726年 | 聖像禁止令 | ローマ教皇が反対 |
| フランク王国 | 756年 | ピピンの寄進 | 教皇領の起源 |
| フランク王国 | 800年 | カールの戴冠 | 西ヨーロッパに皇帝が復活 |
| 中世 | 910年 | クリュニー修道院の創設 | 修道院改革運動の中心 |
| 中世 | 1054年 | 東西教会の分裂 | カトリックとギリシア正教に |
| 中世 | 1077年 | カノッサの屈辱 | 皇帝が教皇に屈服 |
| 中世 | 1095年 | クレルモン宗教会議 | 十字軍の提唱 |
| 中世 | 1122年 | ヴォルムス協約 | 叙任権闘争の妥協 |
| 中世 | 1303年 | アナーニ事件 | 国王が教皇を捕らえる |
| 中世 | 1309〜1377年 | 教皇のバビロン捕囚 | 教皇庁がアヴィニョンに |
| 中世 | 1378〜1417年 | 教会大分裂(大シスマ) | 複数の教皇が並び立つ |
| 中世 | 1414〜1418年 | コンスタンツ公会議 | 大分裂の解消とフスの処刑 |
| 近世 | 1517年 | 九十五カ条の論題 | 宗教改革の始まり |
| 近世 | 1534年 | 首長法/イエズス会の結成 | 国教会の成立とカトリックの立て直し |
| 近世 | 1545〜1563年 | トリエント公会議 | カトリックの教義を再確認 |
| 近世 | 1555年 | アウクスブルクの和議 | 諸侯がルター派を選べる |
| 近世 | 1598年 | ナントの王令 | ユグノーに信仰の自由 |
時代ごとに詳しく見る
ここからは、時期ごとに中身を見ていきます。教会と皇帝・国王が、ときに結びつき、ときに争う関係に注目すると、出来事の順番が自然につながります。
成立:イエスの教えとパウロの伝道
キリスト教が生まれたパレスチナは、1世紀にはローマの支配下にありました。この地のユダヤ人が信じたユダヤ教は、唯一の神ヤハウェを信じ、自分たちを神に選ばれた民とする選民思想や、救世主(メシア)を待つ考えを特徴としていました。
1世紀前半、ナザレ出身のイエスは、神の国が近いことや隣人愛を説き、律法を形式的に守ることにこだわるユダヤ教の指導者を批判しました。そのためローマへの反逆者として訴えられ、ローマ総督のもとで十字架刑に処されました。弟子たちはイエスが復活したと確信し、イエスを救世主と信じるようになります。ここからキリスト教が始まりました。「キリスト」は、「メシア」をギリシア語に訳した言葉です。
弟子の筆頭のペテロは、ローマで殉教したと伝えられ、カトリック教会では初代のローマ教皇とされています。もう一人の重要人物がパウロです。はじめはキリスト教徒を迫害するユダヤ教徒でしたが、回心して伝道者となり、ユダヤ人以外の人々(異邦人)への布教に力を注ぎました。こうしてキリスト教は、ローマ帝国の各地へ広がりました。
| 人物・書物 | 内容 |
|---|---|
| ペテロ | イエスの弟子の筆頭。カトリック教会では初代の教皇とされる |
| パウロ | 異邦人への伝道を進める。手紙は新約聖書の重要な部分 |
| 新約聖書 | 福音書・使徒行伝・書簡などの27文書。コイネー(共通ギリシア語)で書かれた |
ローマ帝国での迫害から公認・国教化へ
ローマ帝国では皇帝を神として崇拝することが求められ、これを拒んだキリスト教徒はたびたび迫害されました。64年には、ネロ帝がローマの大火の責任をキリスト教徒に負わせて処刑しています。信者は、カタコンベと呼ばれる地下の墓所を、迫害の時代には礼拝や集会の場としても使いました。303年には、ディオクレティアヌス帝が帝国全体での大迫害を始めましたが、成功しませんでした。
転機は313年です。コンスタンティヌス帝はリキニウス帝とともにミラノ勅令を出し、キリスト教徒に信仰の自由を認め、没収した教会の財産を返させました。増えていた信者の支持を得て、統治に役立てるねらいがあったとされます。ミラノで勅令そのものが出されたかには異説もありますが、入試では「ミラノ勅令による公認」で覚えれば十分です。コンスタンティヌス帝は、330年に都をビザンティウムへ移し、コンスタンティノープルと改めました。
その後、テオドシウス帝は392年にキリスト教以外の宗教を禁じ、キリスト教は事実上の国教となりました。395年にテオドシウス帝が亡くなると帝国は東西に分かれ、西ローマ帝国は476年に滅びます。しかし教会は西ヨーロッパに残り、ゲルマン人の社会の中で力を伸ばしていきました。


| 段階 | 皇帝 | 年 | 内容 |
|---|---|---|---|
| 迫害 | ネロ帝 | 64年 | 大火の罪を負わせて処刑 |
| 迫害 | ディオクレティアヌス帝 | 303年 | 帝国全体での大迫害 |
| 公認 | コンスタンティヌス帝 | 313年 | ミラノ勅令で信仰の自由を認める |
| 国教化 | テオドシウス帝 | 392年 | ほかの宗教を禁止する |
公会議と正統・異端:ニケーアからカルケドンまで
公認されたキリスト教の内部では、キリストをどのような存在と考えるかをめぐって論争が起きました。そこで皇帝は、各地の聖職者を集めた公会議を開き、正統とする説を決めさせました。
325年、コンスタンティヌス帝が開いたニケーア公会議では、キリストを神と同質とするアタナシウス派が正統とされ、キリストは神につくられた存在だとするアリウス派が異端とされました。父なる神・子なるキリスト・聖霊を一体とする三位一体説は、381年のコンスタンティノープル公会議で正統の教義として確立しました。アリウス派はその後、ゴート人などのゲルマン人に広まりました。
431年のエフェソス公会議では、キリストの神としての性質と人としての性質を分けて考えるネストリウス派が異端とされました。ネストリウス派はササン朝ペルシアで保護されて東方へ広がり、唐では景教と呼ばれました。451年のカルケドン公会議では、神性と人性が融合して一つになったとする単性論が異端とされました。単性論は今もエジプトのコプト教会などに受け継がれています。


| 公会議 | 年 | 異端とされた説 | その後 |
|---|---|---|---|
| ニケーア公会議 | 325年 | アリウス派 | ゲルマン人に広まる |
| エフェソス公会議 | 431年 | ネストリウス派 | ペルシアをへて唐へ(景教) |
| カルケドン公会議 | 451年 | 単性論 | コプト教会などに残る |
ローマ教会とコンスタンティノープル教会:聖像禁止令から東西分裂へ
教会は、ローマ・コンスタンティノープル・アレクサンドリア・アンティオキア・イェルサレムの五本山を中心に組織されました。そのうち、ペテロの後継者を名のるローマ教会と、皇帝のいる都のコンスタンティノープル教会が、首位をめぐって争うようになります。
対立を深めたのが、726年にビザンツ皇帝レオン3世が出した聖像禁止令です。ローマ教皇はこれに反対し、ビザンツ皇帝との関係は冷えこみました。そこで教皇が結びつきを深めたのがフランク王国です。フランク王国では、496年にクローヴィスが正統のアタナシウス派に改宗し、ローマ教会の支持を得ていました。751年、ピピンは教皇の承認を得てカロリング朝を開き、その返礼として教皇を脅かすランゴバルド王国を討ち、756年にラヴェンナ地方を教皇に献じました。これがピピンの寄進で、教皇領の起源です。さらに800年、教皇レオ3世はカール大帝にローマ皇帝の冠を与えました。ビザンツ皇帝とは別に、西ヨーロッパにも皇帝が立ったことになります。


ビザンツ帝国では843年に聖像の崇敬が最終的に認められましたが、両教会の溝は埋まりませんでした。1054年、両教会の代表が互いに相手を破門し、教会は西のローマ・カトリック教会と、東のギリシア正教会(東方正教会)に分裂しました。ビザンツ帝国で皇帝が教会に大きな権限を持った体制は皇帝教皇主義と呼ばれますが、この呼び方は実態を単純化しすぎているという指摘もあります。
ギリシア正教はスラヴ人の世界に広がりました。宣教師キュリロスは兄メトディオスとともにスラヴ人への布教を進め、ロシア文字などのもとになったキリル文字は彼の名にちなみます。10世紀末には、キエフ公国のウラディミル1世がギリシア正教を受け入れ、ロシアにビザンツ文化が流れこみました。


| 項目 | ローマ・カトリック教会 | ギリシア正教会 |
|---|---|---|
| 中心 | ローマ | コンスタンティノープル |
| 頂点 | ローマ教皇 | 全体の首長はいない。皇帝が大きな権限を持った |
| 広がった地域 | 西ヨーロッパ | 東ヨーロッパ、ロシア |
| 結びついた勢力 | フランク王国など | ビザンツ皇帝、キエフ公国など |
教皇権の絶頂:修道院運動・叙任権闘争・十字軍
西ヨーロッパの修道院制度の基礎は、529年ころモンテ=カシノに修道院を開いたベネディクトゥスが築きました。しかし時代が下ると、土地の寄進を受けた教会や修道院は世俗の権力と結びつき、聖職の売り買いや聖職者の妻帯が問題となりました。
これを正そうとしたのが、910年に創設されたクリュニー修道院です。世俗の権力から独立して教皇と直接結びつき、修道院改革運動の中心となりました。その影響を受けた教皇グレゴリウス7世は、聖職売買と聖職者の妻帯を禁じ、世俗の君主が聖職者を任命すること(聖職叙任)も認めませんでした。
反発した神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は教皇に破門され、ドイツ諸侯に見放されることをおそれて、1077年に北イタリアのカノッサで教皇に許しを求めました。これがカノッサの屈辱です。ただし争いは続き、叙任権闘争は1122年のヴォルムス協約で妥協が成立しました。


1095年、教皇ウルバヌス2世はクレルモン宗教会議で十字軍を提唱しました。セルジューク朝の進出に苦しむビザンツ皇帝が救援を求めたことがきっかけです。十字軍は2世紀近く断続的に送られましたが、聖地イェルサレムの占領に成功したのは第1回だけでした。
| 十字軍 | 時期 | 主な内容 | 結果 |
|---|---|---|---|
| 第1回 | 1096〜1099年 | フランスの諸侯・騎士が中心 | イェルサレム王国を建てる |
| 第3回 | 1189〜1192年 | サラーフ=アッディーンのイェルサレム奪回に対し、英・仏の王と神聖ローマ皇帝が参加 | 取り戻せず休戦 |
| 第4回 | 1202〜1204年 | インノケンティウス3世が提唱。ヴェネツィア商人の意向が働く | コンスタンティノープルを占領し、ラテン帝国を建てる |
| 最後の遠征 | 13世紀後半 | フランス王ルイ9世が遠征 | 失敗に終わる |
教皇権が絶頂に達したのは、インノケンティウス3世(在位1198〜1216年)のときです。イギリス王ジョンを破門して臣従させるなど、諸国の王に強い影響力をふるいました。13世紀には、財産を持たずに都市で説教するフランチェスコ会やドミニコ会などの托鉢修道会も生まれました。


教皇権の衰退:アナーニ事件・教会大分裂・ウィクリフとフス
十字軍が失敗に終わると、教皇の権威は揺らぎました。遠征に加わった諸侯や騎士が力を落とす一方、国王の権力は強まり、東方との交易で北イタリアの諸都市が栄えました。
1303年、聖職者への課税をめぐって対立したフランス王フィリップ4世は、教皇ボニファティウス8世をアナーニで捕らえさせました。教皇はまもなく亡くなり、このアナーニ事件は教皇権の衰えを示す出来事となりました。その後、フランス出身の教皇クレメンス5世のもとで、1309年に教皇庁が南フランスのアヴィニョンに移されました。1377年まで続いたこの時期は、古代のユダヤ人の故事になぞらえて「教皇のバビロン捕囚」と呼ばれます。教皇庁がローマに戻ると、1378年からはローマとアヴィニョンに別々の教皇が立つ教会大分裂(大シスマ)が起こりました。
こうした混乱の中で、イギリスのウィクリフは聖書こそ信仰の基礎だとして教会を批判し、聖書の英訳を進めました。ベーメン(ボヘミア)のフスはその影響を受けて教会を批判しました。1414年からのコンスタンツ公会議は、1417年に新しい教皇を選んで大分裂を終わらせる一方、ウィクリフとフスを異端とし、1415年にフスを火刑に処しました。これに反発したフス派は、1419年からフス戦争を起こしました。
| 人物 | 地域 | 主張・活動 | その後 |
|---|---|---|---|
| ウィクリフ | イギリス | 聖書を信仰の基礎とし、聖書の英訳を進める | 死後に異端とされる |
| フス | ベーメン(ボヘミア) | ウィクリフに共鳴し、教会の堕落を批判 | 1415年に火刑。フス戦争へ |
宗教改革:ルター・カルヴァン・イギリス国教会
16世紀、教皇レオ10世のもとで教皇庁は、サン・ピエトロ大聖堂を建て直す資金を集めるため贖宥状(免罪符)を販売しました。罪の償いを免除するとされた証書です。ヴィッテンベルク大学の神学教授ルターは、1517年に九十五カ条の論題を発表してこれを批判し、宗教改革の口火を切りました。


ルターは、人は信仰によってのみ救われると説き、信仰のよりどころを聖書に置きました。ルターは教皇から破門され、1521年には皇帝カール5世が開いたヴォルムス帝国議会でも自説の撤回を拒みました。その後はザクセン選帝侯に保護され、新約聖書をドイツ語に訳しました。1524年からのドイツ農民戦争では、農民が急進化すると諸侯による鎮圧を支持しています。ルター派を受け入れた諸侯は、領内の教会を自ら治めるようになりました(領邦教会制)。1529年に皇帝の抑圧に諸侯が抗議したことから、改革派はプロテスタントと呼ばれるようになります。
皇帝とルター派諸侯の争いは、1555年のアウクスブルクの和議(アウクスブルクの宗教和議)でひとまず収まりました。諸侯や帝国都市は、カトリックとルター派のどちらを採用するかを選べるようになりました。ただし、選べるのは諸侯であって住民一人ひとりではなく、カルヴァン派は認められませんでした。
スイスでは、フランス出身のカルヴァンがジュネーヴで改革を進めました。1536年に『キリスト教綱要』を著し、1541年からは厳格な改革を行いました。救われるかどうかは神によってあらかじめ定められているという予定説を唱え、信徒から選ばれた長老が牧師とともに教会を運営する長老主義の基礎を築きました。
イギリスでは、王妃キャサリンとの離婚を教皇に認められなかったヘンリ8世が、1534年に首長法(国王至上法)を定め、国王をイギリス国教会の唯一最高の首長としました。修道院も解散して土地を没収しました。メアリ1世のときにカトリックに戻りましたが、エリザベス1世が1559年に統一法を定めて国教会を確立しました。国教会は、儀式や制度にカトリックの要素を多く残しています。
| 国・地域 | カルヴァン派の呼び名 |
|---|---|
| フランス | ユグノー |
| イギリス(イングランド) | ピューリタン(清教徒) |
| スコットランド | プレスビテリアン(長老派) |
| ネーデルラント | ゴイセン |
対抗宗教改革と宗教戦争
カトリック教会の側でも、立て直しの動きが進みました。これを対抗宗教改革(反宗教改革)といいます。1545年から1563年まで断続的に開かれたトリエント公会議では、カトリックの教義が改めて確認され、教皇の権威の立て直しと教会内部の改革が決められました。禁書目録もこのころ作られています。
1534年には、イグナティウス=ロヨラがフランシスコ=ザビエルらとイエズス会を結成し、1540年に教皇の認可を受けました。イエズス会は教育と布教に力を入れ、南ドイツなどをカトリックに取り戻し、アジアやアメリカ大陸へも宣教師を送りました。
新旧両派の対立は各地で戦争を生みました。フランスでは1562年からユグノー戦争が起こり、1572年にはサンバルテルミの虐殺が起きました。内乱の末に即位したアンリ4世は、自らはカトリックに改宗したうえで、1598年にナントの王令(ナントの勅令)を出し、ユグノーに制限つきで信仰の自由を認めました。ドイツでは1618年に三十年戦争が始まり、1648年のウェストファリア条約でカルヴァン派も認められました。条約の詳しい内容は、条約・国際会議史の記事で扱います。
| 戦争・取り決め | 年 | 地域 | 宗教面での結果 |
|---|---|---|---|
| アウクスブルクの和議 | 1555年 | ドイツ | 諸侯がルター派を選べる。カルヴァン派は除外 |
| ユグノー戦争 | 1562〜1598年 | フランス | ナントの王令でユグノーに信仰の自由 |
| 三十年戦争 | 1618〜1648年 | ドイツ中心 | ウェストファリア条約でカルヴァン派も承認 |
比べて覚える
宗教改革で最も混同しやすいのが、ルター派・カルヴァン派・イギリス国教会の3つです。「誰が」「どこで」「何がきっかけで」「何を主張したか」の4点で並べると、違いがはっきりします。


| 項目 | ルター派 | カルヴァン派 | イギリス国教会 |
|---|---|---|---|
| 中心人物 | ルター | カルヴァン | ヘンリ8世、エリザベス1世 |
| 始まった地域 | ドイツ | スイス(ジュネーヴ) | イギリス |
| きっかけ | 贖宥状の販売への批判 | ジュネーヴでの教会改革 | 国王の離婚問題 |
| 主張・特徴 | 信仰によってのみ救われる | 予定説、長老主義 | 国王が教会の首長 |
| 公認・確立 | アウクスブルクの和議(1555年) | ウェストファリア条約(1648年) | 首長法(1534年)・統一法(1559年) |
教皇と世俗の権力者の対立も、比べて覚えておきたいところです。11世紀には教皇が皇帝を屈服させましたが、14世紀初めには国王が教皇を捕らえています。この逆転の間に、十字軍の失敗と王権の伸長がありました。
| 項目 | カノッサの屈辱 | アナーニ事件 |
|---|---|---|
| 年 | 1077年 | 1303年 |
| 教皇 | グレゴリウス7世 | ボニファティウス8世 |
| 世俗の権力者 | 神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世 | フランス王フィリップ4世 |
| 争点 | 聖職者の叙任権 | 聖職者への課税 |
| 優位に立ったほう | 教皇 | 国王 |
入試で狙われるポイント
正誤問題では、皇帝と年号、公会議と異端の説、人物と地域の組み合わせを入れ替えた選択肢がよく出されます。左の列の文を見たら、右の列の内容がすぐに出てくるようにしておきましょう。
| 誤りやすい記述 | 正しい内容 |
|---|---|
| テオドシウス帝がミラノ勅令を出した | ミラノ勅令は313年のコンスタンティヌス帝。テオドシウス帝は392年の国教化 |
| ニケーア公会議でネストリウス派が異端とされた | ニケーアはアリウス派。ネストリウス派はエフェソス(431年) |
| 聖像禁止令はローマ教皇が出した | ビザンツ皇帝レオン3世が出し、ローマ教皇は反対した |
| カノッサの屈辱で叙任権闘争は終わった | 1122年のヴォルムス協約で妥協した |
| ボニファティウス8世が教皇庁をアヴィニョンに移した | 移ったのはクレメンス5世のとき |
| フスはイギリスの宗教改革の先駆者 | フスはベーメン。イギリスはウィクリフ |
| アウクスブルクの和議で個人の信仰の自由が認められた | 選べたのは諸侯。カルヴァン派も除外 |
| ナントの王令はルイ14世が出した | 1598年のアンリ4世。ルイ14世は1685年に廃止した |
順序の問題では、「迫害(64年・303年)→公認(313年)→ニケーア(325年)→国教化(392年)→エフェソス(431年)→カルケドン(451年)」の並びがとくに狙われます。公認と国教化の間にニケーア公会議が入ることを確認しておきましょう。
論述で使える要点
論述では、出来事を並べるだけでなく、「なぜ教会が分かれたのか」「なぜ教皇権が弱まったのか」を因果でつなぐことが求められます。よく出る2つのテーマについて、要点の例を示します。
例1「東西教会の分裂の過程」(150字程度):ローマ教会とコンスタンティノープル教会は首位をめぐって争っていた。726年にビザンツ皇帝レオン3世が聖像禁止令を出すとローマ教皇は反対し、フランク王国と結んだ。ピピンの寄進で教皇領を得て、800年にはカール大帝に帝冠を与えて西ヨーロッパに皇帝を立て、1054年に両教会は相互に破門して分裂した。
例2「教皇権の盛衰」(150字程度):クリュニー修道院の改革運動を背景に、グレゴリウス7世は叙任権闘争で皇帝を屈服させ、インノケンティウス3世のとき教皇権は絶頂に達した。しかし十字軍の失敗で教皇の権威が揺らぎ、王権が伸びると、アナーニ事件、教皇のバビロン捕囚、教会大分裂が続き、教皇の権威は大きく低下した。
| テーマ | 入れるべき用語 |
|---|---|
| 公認と国教化 | 皇帝崇拝、ネロ帝、ディオクレティアヌス帝、ミラノ勅令、ニケーア公会議、テオドシウス帝 |
| 東西教会の分裂 | 五本山、聖像禁止令、レオン3世、ピピンの寄進、カールの戴冠、皇帝教皇主義 |
| 教皇権の盛衰 | クリュニー修道院、叙任権闘争、カノッサの屈辱、十字軍、アナーニ事件、教会大分裂 |
| 宗教改革の広がり | 贖宥状、九十五カ条の論題、予定説、首長法、アウクスブルクの和議、トリエント公会議 |
確認問題
キリスト教史の重要語句を、一問一答で確かめましょう。どの問題も本文と表に出てきた語句で答えられます。年号も一緒に言えるかを試し、言えなかった問題は年表に戻って確認してください。
- 164年、ローマの大火の罪をキリスト教徒に負わせて迫害した皇帝は?303年に大迫害を始めたディオクレティアヌス帝と区別する
- 2313年、ミラノ勅令でキリスト教を公認した皇帝は?325年にはニケーア公会議を開いた
- 3392年、キリスト教以外の宗教を禁じた皇帝は?キリスト教は事実上の国教となった
- 4325年のニケーア公会議で正統とされた、キリストを神と同質とする説は?異端とされたのはアリウス派
- 5431年のエフェソス公会議で異端とされ、唐で景教と呼ばれた一派は?ササン朝ペルシアで保護されて東方へ広がった
- 6451年のカルケドン公会議で異端とされた説は?今もコプト教会などに受け継がれている
- 7726年に聖像禁止令を出したビザンツ皇帝は?ローマ教皇はこれに反対した
- 8756年、ピピンがラヴェンナ地方を教皇に献じたできごとを何という?教皇領の起源となった
- 9910年に創設され、修道院改革運動の中心となった修道院は?世俗の権力から独立し、教皇と直接結びついた
- 101077年、ハインリヒ4世が教皇グレゴリウス7世に許しを求めた事件は?叙任権闘争は1122年のヴォルムス協約で妥協した
- 111303年、フランス王フィリップ4世が教皇ボニファティウス8世を捕らえた事件は?教皇権の衰えを示す出来事となった
- 12コンスタンツ公会議で異端とされ、1415年に火刑に処されたベーメンの宗教改革者は?ウィクリフの影響を受けて教会を批判した
- 131517年、ルターが贖宥状を批判して発表した文書は?宗教改革の口火となった
- 141534年、ヘンリ8世が国王をイギリス国教会の首長とした法は?国王至上法ともいう
- 151598年、アンリ4世がユグノーに信仰の自由を認めた王令は?ナントの勅令とも呼ばれる
数日あけてから、もう一度この一覧に戻ってきてください。
ほかの時代の用語も確かめたいときは、世界史一問一答で地域や時代を混ぜて解いてみてください。
世界史 キリスト教史の内容をまとめて復習できる解説つきの問題集(PDF・全19問)を用意しました。下のファイルをダウンロードして、印刷して使ってください。
テーマ史の勉強の進め方
キリスト教の話は、通史ではローマ帝国、ビザンツ帝国、中世の西ヨーロッパ、近世ヨーロッパと、別々の章に分かれて出てきます。通史を一周したあとで一本の線に並べ直すと、「迫害→公認→分裂→教皇権の盛衰→宗教改革」という流れが見え、各章の知識が結びつきます。
| 段階 | やること | 目安 |
|---|---|---|
| 1 | 通史でローマ・ビザンツ・西ヨーロッパの教会の話を学ぶ | ヨーロッパ史が一周したあと |
| 2 | 年表の年号とできごとを隠し、ポイントの列から当てる | 1回10〜15分 |
| 3 | 公会議の表と宗教改革の比較表を白紙に書き出す | 書けなかった欄に印をつける |
| 4 | 教皇権の盛衰を150字でまとめる | 数日おいて繰り返す |
キリスト教史は、イスラーム世界との関係や東西の交流、近代の国際関係ともつながっています。下の関連記事とあわせて読むと、ヨーロッパ史の全体像がつかみやすくなります。
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まとめ
キリスト教は、ローマ帝国で迫害を受けながら広がり、4世紀に公認・国教化されました。その後、ローマとコンスタンティノープルの教会が東西に分かれ、西ヨーロッパでは教皇権が頂点に達したのちに衰えました。16世紀の宗教改革で西の教会も分かれ、宗教戦争の時代へと移っていきます。
| 段階 | 中心となる出来事 | 次の段階へ移った理由 |
|---|---|---|
| 成立と迫害 | イエスの活動、パウロの伝道、ネロ帝・ディオクレティアヌス帝の迫害 | 信者が増え、皇帝が支持を求めた |
| 公認と国教化 | ミラノ勅令、ニケーア公会議、テオドシウス帝の国教化 | ローマとコンスタンティノープルの教会が首位を争った |
| 東西の分裂 | 聖像禁止令、ピピンの寄進、カールの戴冠、1054年の分裂 | 西では教会改革が進み、教皇が君主と争った |
| 教皇権の盛衰 | カノッサの屈辱、十字軍、アナーニ事件、教会大分裂 | 教会の権威が落ち、贖宥状への批判が広がった |
| 宗教改革と宗教戦争 | ルター、カルヴァン、首長法、トリエント公会議、ナントの王令 | 三十年戦争とウェストファリア条約へ |
まずは年表のポイントの列で5つの段階をつかみ、次に公会議や宗教改革の比較の表で組み合わせを確かめてください。最後に論述の要点を自分の言葉で書いてみると、キリスト教史は流れで説明できる得点源になります。









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