奴隷制と人権の歴史は、古代ギリシア・ローマから20世紀の国際連合まで、世界史のほぼすべての時代にまたがるテーマです。入試では、大西洋奴隷貿易のしくみや、イギリス・フランス・アメリカなどで奴隷制が廃止された年と順序がよく問われます。「奴隷貿易の禁止」と「奴隷制そのものの廃止」を取りちがえやすい分野でもあります。
このテーマを貫く軸は、「権利が宣言されたこと」と「その権利から実際に外されていた人々がいたこと」のずれです。アメリカ独立宣言やフランス人権宣言は人間の自由と平等をうたいましたが、宣言のあとも奴隷制はしばらく続きました。このずれを埋めようとする動きが、ハイチの独立や各国の奴隷制廃止、20世紀の公民権運動へとつながっていきます。
この記事では、流れを年表でつかんだうえで時代ごとの因果を説明し、まぎらわしい年号や用語を表で整理します。

最後にこの記事の内容をまとめた確認プリントもあります!最後まで読み、プリントで復習してこの範囲を完璧にしましょう!
| この記事で分かること | 該当する節 |
|---|---|
| 古代から20世紀までの奴隷制と人権の流れ | まず全体像 |
| 奴隷制が生まれた理由と、廃止へ向かった理由 | 時代ごとに詳しく見る |
| 奴隷・ヘイロータイ・農奴の違い、各国の廃止の比較 | 比べて覚える |
| 年号と国の組み合わせで誤りやすい点 | 入試で狙われるポイント |
| 論述で使える要点と用語 | 論述で使える要点 |
まず全体像:奴隷制と人権の流れを一枚でつかむ
奴隷制の歴史は、大きく3つの段階に分けて考えると整理しやすくなります。第1は、古代の地中海世界で戦争捕虜などが奴隷とされた段階です。第2は、16世紀以降にアフリカの人々が大西洋をこえて南北アメリカへ運ばれた段階です。第3は、18世紀後半から19世紀にかけて、人権の考え方の広がりとともに奴隷貿易と奴隷制が廃止されていく段階です。
下の年表では、奴隷制に関わる出来事と権利を宣言した文書を並べています。宣言と廃止の時間差に注目してください。


| 時代 | 年号 | できごと | ポイント |
|---|---|---|---|
| 古代ローマ | 前73〜前71年 | スパルタクスの反乱 | 剣闘士スパルタクスが率いた大規模な奴隷反乱 |
| 中世 | 1215年 | マグナ=カルタ(大憲章) | イングランド王の権力を制限した文書 |
| 16世紀 | 1552年 | ラス=カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』 | 先住民への過酷な扱いを告発 |
| 16〜19世紀 | 17〜18世紀に最盛期 | 大西洋奴隷貿易 | アフリカの人々がアメリカ大陸へ運ばれる |
| 17世紀 | 1689年 | 権利の章典 | 名誉革命のあと議会の権利を確認 |
| 18世紀 | 1713年 | ユトレヒト条約 | イギリスがアシエント(奴隷供給契約)を得る |
| 18世紀 | 1776年 | アメリカ独立宣言 | 人間の平等をうたうが、奴隷制は残る |
| 18世紀 | 1789年 | フランス人権宣言 | 自由と平等を宣言。植民地の奴隷制は残る |
| 18世紀 | 1791年 | サン=ドマングで奴隷の蜂起 | のちのハイチ独立の出発点 |
| 18世紀 | 1794年 | フランスの国民公会が奴隷制を廃止 | 1802年にナポレオンが復活させる |
| 19世紀 | 1804年 | ハイチの独立 | 世界最初の黒人の共和国 |
| 19世紀 | 1807年 | イギリスが奴隷貿易を禁止 | まだ奴隷制そのものは残る |
| 19世紀 | 1833年 | イギリスが帝国内の奴隷制を廃止 | 奴隷の所有者に補償を払う有償の廃止 |
| 19世紀 | 1848年 | フランス(第二共和政)が奴隷制を廃止 | 最終的な廃止 |
| 19世紀 | 1861年 | ロシアの農奴解放令 | アレクサンドル2世が出す |
| 19世紀 | 1861〜1865年 | アメリカの南北戦争 | 1863年に奴隷解放宣言 |
| 19世紀 | 1865年 | アメリカ合衆国憲法修正第13条 | 奴隷制を制度として廃止 |
| 19世紀 | 1888年 | ブラジルが奴隷制を廃止 | 翌年に帝政が倒れる |
| 20世紀 | 1948年 | 国連総会で世界人権宣言を採択 | すべての国が目ざす共通の基準 |
| 20世紀 | 1964年 | アメリカで公民権法 | 公共施設や雇用での差別を禁止 |
| 20世紀 | 1965年・1966年 | 人種差別撤廃条約・国際人権規約を採択 | 人権を条約で守る段階へ |
| 20世紀 | 1991年 | 南アフリカでアパルトヘイト関連法を撤廃 | 1994年にマンデラが大統領に |
時代ごとに詳しく見る
ここからは、時代ごとに奴隷制のしくみと、それを変えた力を見ていきます。誰が「権利を持つ人」に数えられ、誰が外されていたのかを意識すると、出来事どうしのつながりが見えてきます。
古代ギリシア・ローマ:奴隷に支えられた市民社会
古代ギリシアのアテネでは、奴隷の多くはトラキア人などの異民族で、戦争の捕虜や、奴隷商人を通じて買われてきた人々でした。奴隷は家の中の仕事のほか、手工業の作業場や銀山でも働かされました。アテネの市民社会は、こうした奴隷の労働に支えられていました。
一方、スパルタのヘイロータイ(ヘロット)は、スパルタ人に征服された先住民の子孫です。土地にしばりつけられて農業に従事し、収穫の一部を納めました。家族を持つことはできましたが、身分は国家の規制のもとに置かれました。数の上で多いヘイロータイの反乱を防ぐことが、スパルタが軍事を重んじた理由の一つとされます。
ローマでは、征服によって生まれた広い公有地を有力者が手に入れ、奴隷を使って大規模な農場を経営しました。これがラティフンディア(ラティフンディウム)で、第2回ポエニ戦争のあとに急速に広がりました。その反面、中小の農民は没落していきました。前73年には、トラキア出身の剣闘士スパルタクスがカプアの養成所から反乱を起こし、多くの奴隷が加わりましたが、前71年にクラッススらに鎮圧されました。その後、3世紀ごろからは、奴隷にかわってコロヌス(小作人)を使う経営へと移っていきます。
| 名前 | どこで | なり方・身分 | 働き方 |
|---|---|---|---|
| 奴隷 | アテネ | 戦争捕虜や、買われてきた異民族 | 家内労働・手工業・鉱山 |
| ヘイロータイ | スパルタ | 征服された先住民の子孫。国家が規制 | 土地を耕し、収穫の一部を納める |
| 奴隷 | ローマ | 征服戦争で大量に供給された | ラティフンディアでの農業 |
中世:農奴と、イスラーム世界の奴隷軍人(マムルーク)
中世の西ヨーロッパでは、荘園で働く農民の多くが農奴でした。農奴は家族や住居、農具などの財産を持つことができた点で、売り買いされる奴隷とは違います。しかし、領主に賦役(領主の土地での労働)や貢納を課され、土地を離れて移り住む自由がありませんでした。結婚や相続のときにも税が課されました。
イスラーム世界では、トルコ人などを奴隷として買い入れ、軍人として育てるしくみが発達しました。こうした奴隷軍人をマムルークといいます。9世紀にアッバース朝のカリフが大量に採用したことで広まり、その後のイスラーム諸王朝で軍の中心となりました。マムルークは奴隷の身分から解放されて司令官などに出世することもあり、エジプトではマムルークが支配者となるマムルーク朝も生まれました。
16〜18世紀:先住民の強制労働と大西洋奴隷貿易
16世紀、スペインはアメリカ大陸の植民地でエンコミエンダ制をしきました。これは、国王が植民者に先住民の統治を任せ、キリスト教に改宗させる義務と引きかえに、貢納や労働を課す権利を与える制度です。法の上では先住民は奴隷ではないとされましたが、鉱山などでの酷使に加え、ヨーロッパから持ちこまれた伝染病のために、先住民の人口は激減しました。
この惨状を告発したのが、スペインの聖職者ラス=カサスです。彼はエンコミエンダ制を批判して先住民の保護を訴え、1552年に『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を刊行しました。先住民の人口が減り、保護を求める声も上がるなかで、代わりの労働力としてアフリカの人々が求められるようになります。


奴隷貿易が本格的に広がったのは、16世紀後半から17世紀にかけて、ブラジル北東部やカリブ海の島々で砂糖のプランテーション(輸出向け作物を栽培する大農園)が開かれてからです。最初に奴隷貿易を担ったのはポルトガルで、17世紀にはオランダ、さらにイギリスとフランスが加わりました。奴隷貿易は17世紀半ばから18世紀にかけて最盛期を迎えました。アメリカ大陸に運ばれた人数は正確には分かっておらず、少ない推計でも約1,000万人にのぼるとされ、さらに多い推計もあります。
この貿易は、ヨーロッパ・西アフリカ・アメリカ大陸を結ぶ三角貿易として行われました。ヨーロッパの商人は武器や綿布、装飾品などを積んで西アフリカへ行き、沿岸の王国との取引で人々を奴隷として買い取りました。奴隷はアメリカ大陸やカリブ海の島々へ運ばれて売られ、船は砂糖や綿花などを積んでヨーロッパに戻りました。多くの働き盛りの人々を失ったアフリカの社会は、大きな打撃を受けました。


| 航路 | 運ばれたもの |
|---|---|
| ヨーロッパ → 西アフリカ | 武器・綿布・装飾品などの工業製品 |
| 西アフリカ → アメリカ大陸・カリブ海 | 奴隷とされたアフリカの人々 |
| アメリカ大陸・カリブ海 → ヨーロッパ | 砂糖・綿花などの植民地の産物 |
18世紀には、奴隷貿易をめぐる争いが国家どうしの対立にもなりました。スペインは、アシエントと呼ばれる奴隷供給の契約を外国の商人や会社などに与えていました。スペイン継承戦争の講和条約である1713年のユトレヒト条約で、イギリスはこのアシエントを手に入れ、南海会社に担わせました。三角貿易で得た富は、リヴァプールなどの港町の成長や、イギリスの綿工業の発展を支えたとされます。ただし、奴隷貿易と産業革命の資本の関係をどこまで重く見るかについては、諸説があります。
17〜18世紀:権利の章典・啓蒙思想・人権宣言
権利を文書で確かめる動きは、イギリスで早くから見られました。1215年のマグナ=カルタは、ジョン王が貴族たちに迫られて認めたもので、王の権力を制限しました。ただし、その中身は貴族や教会の特権の確認が中心で、すべての人の権利を宣言したものではありませんでした。1689年には、名誉革命のあとに権利の章典が定められ、議会の承認なしに課税することなどが禁じられました。
18世紀には、人は生まれながらに権利を持つという自然権の考え方が、ロックらの思想や啓蒙思想を通じて広がりました。1776年のアメリカ独立宣言は、ジェファソンが起草したもので、人間の平等と基本的な権利、圧政に抵抗する権利を掲げました。1789年8月26日にはフランスの国民議会が人権宣言(人間および市民の権利の宣言)を採択し、自由と平等、国民主権、所有権の不可侵などを定めました。人権宣言は、啓蒙思想やアメリカ独立宣言の影響を受けています。


しかし、これらの宣言の「すべての人」には、実際には大きな限界がありました。アメリカでは独立後、北部の州では奴隷制が廃止されていきましたが、南部では奴隷制が続きました。フランスでも、人権宣言のあとしばらくは植民地の奴隷制が残りました。女性も政治的な権利から外されており、劇作家のオランプ=ド=グージュは、人権宣言が女性の権利を無視していると批判して、1791年に女性の権利を求める宣言を発表しました。
| 文書 | 年 | 主な内容 | 外されていた人々の例 |
|---|---|---|---|
| マグナ=カルタ | 1215年 | 王の権力を制限し、貴族などの特権を確認 | 特権を持たない多くの人々 |
| 権利の章典 | 1689年 | 議会の承認なしの課税などを禁止 | 議会に代表を送れない人々 |
| アメリカ独立宣言 | 1776年 | 人間の平等、基本的な権利、圧政への抵抗権 | 南部の奴隷、先住民 |
| フランス人権宣言 | 1789年 | 自由・平等、国民主権、所有権の不可侵 | 植民地の奴隷、女性 |
18世紀末〜19世紀前半:ハイチ革命とイギリス・フランスの奴隷制廃止
宣言と現実のずれに最も鋭く迫ったのが、カリブ海のフランス領サン=ドマング(現在のハイチ)でした。この植民地では、多数の黒人奴隷が砂糖やコーヒーの農園で働かされていました。1791年、フランス革命の影響を受けて奴隷の大規模な蜂起が起こり、奴隷出身のトゥサン=ルヴェルチュールがその指導者となりました。
サン=ドマングの動きも受けて、フランスの国民公会は1794年に植民地の奴隷制を廃止しました。人権宣言の採択からおよそ4年後のことです。しかし1802年、ナポレオン(ボナパルト)は奴隷制を復活させます。トゥサンはナポレオンが送ったフランス軍に捕らえられ、1803年にフランスで亡くなりました。それでも後継者のデサリーヌらが戦いを続け、1804年にハイチは独立を宣言しました。ハイチは、世界最初の黒人の共和国であり、ラテンアメリカで最初の独立国です。


イギリスでは18世紀後半から、奴隷貿易への批判が高まりました。議員のウィルバーフォースは、議会で長く奴隷貿易の廃止を訴え、1807年に奴隷貿易の廃止を実現させました。さらに1833年には、帝国内の奴隷制そのものを廃止することが決まりました。このとき、奴隷を所有していた人々には補償金が支払われました。廃止を求める運動は、人道主義の立場からの批判に支えられていました。
フランスでは、1848年の二月革命で成立した第二共和政の臨時政府が、奴隷制を最終的に廃止しました。フランスの奴隷制の廃止は、1794年の廃止、1802年の復活、1848年の最終的な廃止という3つの段階をへていることになります。
19世紀のアメリカ:奴隷制をめぐる対立と南北戦争
アメリカの南部では、黒人奴隷を使って綿花などを栽培する大農園が経済の中心でした。南部は綿花をイギリスに輸出していたため自由貿易を望み、商工業が発達した北部はイギリスの工業に対抗するため保護貿易を求めました。さらに、西部に新しくできる州で奴隷制を認めるかどうかをめぐって、南北の対立は深まっていきました。
1852年には、ストウが小説『アンクル=トムの小屋』を発表し、奴隷制に反対する世論を大きく高めました。1860年、奴隷制の拡大に反対する共和党のリンカンが大統領に当選すると、南部の11州は合衆国を離れてアメリカ連合国をつくり、1861年に南北戦争が始まりました。
戦争中の1863年1月1日、リンカンは奴隷解放宣言を出しました。対象は合衆国に反乱を起こしている地域の奴隷で、合衆国側にとどまった奴隷州は含まれていませんでした。そのため、制度としての奴隷制の廃止は、1865年の憲法修正第13条によって実現しました。宣言は、国内外の世論を北部の側に引きつける役割も果たしました。
しかし、奴隷制が廃止されたあとも差別は続きました。南北戦争のあと、南部ではクー=クラックス=クランのような秘密結社が黒人を脅かしました。また、「分離すれども平等」という考え方のもとで、学校や交通機関などを人種で分ける制度が広がり、黒人が投票の権利を使うことも妨げられました。
19世紀のロシア・ラテンアメリカ:農奴解放令とブラジルの奴隷制廃止
ロシアでは、19世紀半ばまで農奴制が続いていました。1853年に始まったクリミア戦争での敗北は、ロシアが西ヨーロッパに比べて遅れていることを明らかにしました。そこで近代化の必要を感じた皇帝アレクサンドル2世は、1861年に農奴解放令を出しました。
農奴は人格的な自由を得ましたが、土地を手に入れるには代金を払って買い戻す必要がありました。土地は農村共同体(ミール)を単位に分け与えられ、買い戻しの支払いの責任もミールが負いました。そのため農民は共同体にしばられ、生活はすぐには楽になりませんでした。
ブラジルでは、砂糖、のちにはコーヒーの農園で、長く黒人奴隷の労働が使われていました。ブラジルが奴隷制を廃止したのは1888年で、その翌年の1889年には帝政が倒れて共和政に移りました。奴隷制の廃止後、コーヒー農園の労働力はヨーロッパからの移民で補われるようになります。
奴隷制廃止のあと:苦力・年季契約労働者と人種差別
奴隷制が廃止されると、植民地の農園や鉱山では働き手が足りなくなりました。その穴を埋めたのが、中国やインドから送り出された労働者で、苦力(クーリー)と呼ばれました。彼らは西インド諸島やアメリカ大陸、東南アジアなどの農園や鉱山、鉄道の建設などで働きました。
苦力の多くは形の上では契約を結んだ労働者でしたが、労働条件は厳しく、売り買いされる点では奴隷に近い扱いを受けることもありました。人々が移動した流れや移住先の社会については、移民史の記事で扱います。


20世紀:世界人権宣言・公民権運動・アパルトヘイトの撤廃
第二次世界大戦のあと、人権を国際社会全体で守ろうとする動きが始まりました。1948年12月10日、国際連合の第3回総会で世界人権宣言が採択されました。法的な拘束力はありませんが、すべての人々と国が達成すべき共通の基準を示しました。その後、1965年に人種差別撤廃条約、1966年に国際人権規約が国連総会で採択され、人権は条約として各国を法的に拘束するものになっていきます。
アメリカでは、1954年に最高裁判所が公立学校での人種分離を違憲とする判決を出しました。翌1955年には、アラバマ州モンゴメリーでバスの人種分離に抗議するボイコット運動が起こり、キング牧師が非暴力の運動を指導しました。1963年のワシントン大行進をへて、1964年に公民権法が成立し、公共施設や教育、雇用での差別が禁じられました。1965年には、投票での人種差別をなくすための投票権法も定められました。


南アフリカでは、1948年に国民党が政権を握ると、白人と非白人を分けるアパルトヘイト(人種隔離政策)が本格化しました。非白人は参政権を奪われ、住む場所や結婚なども制限されました。国内の抵抗運動と国際的な非難が強まるなか、デクラーク政権は1990年に指導者マンデラを釈放し、1991年にはアパルトヘイト関連法が撤廃されました。1994年に全人種が参加する選挙が行われ、マンデラが大統領に就任しました。
| 年 | できごと | 内容 |
|---|---|---|
| 1948年 | 世界人権宣言 | 国連総会で採択。法的拘束力はない共通の基準 |
| 1955年 | モンゴメリーのバス・ボイコット | キング牧師が非暴力の運動を指導 |
| 1964年 | 公民権法(アメリカ) | 公共施設・教育・雇用での差別を禁止 |
| 1965年 | 人種差別撤廃条約・投票権法(アメリカ) | 条約は国連総会で採択、1969年に発効 |
| 1966年 | 国際人権規約 | 国連総会で採択、1976年に発効。法的拘束力を持つ |
| 1991年 | アパルトヘイト関連法の撤廃 | 1994年にマンデラが大統領に就任 |
比べて覚える
奴隷制のテーマでは、まず「奴隷」「ヘイロータイ」「農奴」の違いを押さえることが大切です。どれも自由を奪われた人々ですが、売り買いされるかどうか、家族や財産を持てるかどうかで区別されます。


| 項目 | 奴隷(アテネ・ローマ) | ヘイロータイ(スパルタ) | 農奴(中世西ヨーロッパ) |
|---|---|---|---|
| 由来 | 戦争捕虜、買われてきた異民族 | 征服された先住民の子孫 | 荘園の農民 |
| 売買 | 財産として売買された | 国家が身分を規制 | 奴隷とは区別される |
| 家族・財産 | 認められないことが多い | 家族を持てた | 家族・住居・農具を持てた |
| 負担 | 主人のもとでの労働 | 収穫の一部を納める | 賦役・貢納、移動の自由なし |
もう一つの比較は、奴隷制を廃止した国ごとの年と方法です。「奴隷貿易の禁止」と「奴隷制の廃止」の年が別にある国や、廃止が一度で終わらなかった国に注意しましょう。
| 国 | 奴隷貿易の禁止・最初の動き | 奴隷制の廃止 | 注意点 |
|---|---|---|---|
| イギリス | 1807年(奴隷貿易の廃止) | 1833年(帝国内) | 所有者に補償する有償の廃止 |
| フランス | 1794年(国民公会による廃止) | 1848年(第二共和政) | 1802年にナポレオンが復活させた |
| アメリカ | 1863年(奴隷解放宣言) | 1865年(憲法修正第13条) | 宣言の対象は反乱を起こした地域 |
| ブラジル | ― | 1888年 | 翌年に帝政が倒れる |
| ロシア(農奴) | ― | 1861年(農奴解放令) | 土地は有償。ミールにしばられる |
入試で狙われるポイント
正誤問題では、年号と国の組み合わせをずらしたり、「奴隷貿易の禁止」と「奴隷制の廃止」を入れかえたりする選択肢がよく出されます。左の列のような文を見たら、右の列の正しい内容を思い出せるようにしておきましょう。
| 誤りやすい記述 | 正しい内容 |
|---|---|
| イギリスは1807年に奴隷制を廃止した | 1807年は奴隷貿易の廃止。奴隷制の廃止は1833年 |
| フランスの奴隷制は1789年の人権宣言で廃止された | 人権宣言のあとも残り、1794年に国民公会が廃止。1802年に復活し、1848年に最終的に廃止 |
| 奴隷解放宣言によって、アメリカのすべての奴隷が解放された | 対象は反乱を起こした地域の奴隷。制度としての廃止は1865年の憲法修正第13条 |
| ハイチはスペインから独立した | フランス領サン=ドマングが1804年に独立した |
| アシエントはウェストファリア条約でイギリスが得た | 1713年のユトレヒト条約で得た |
| 農奴は奴隷と同じく、家族や財産を持てなかった | 家族や農具などの財産を持てた。移動の自由がなかった |
| ロシアの農奴解放令で、農民は土地を無償で得た | 土地を得るには買い戻しの代金が必要だった |
| 世界人権宣言は加盟国を法的に拘束する | 法的拘束力はない。拘束力を持つのは国際人権規約など |
論述で使える要点
論述では、「なぜ奴隷制が広がり、なぜ廃止されたのか」を経済と思想の両面から説明することが求められます。2つのテーマについて要点の例を示します。
例1「大西洋奴隷貿易が広がった理由」(150字程度):スペイン領アメリカでは、エンコミエンダ制のもとでの酷使と伝染病により先住民が激減した。16世紀後半からブラジルやカリブ海で砂糖のプランテーションが広がると、労働力としてアフリカの人々が求められた。ヨーロッパ・西アフリカ・アメリカを結ぶ三角貿易が成立し、18世紀にはイギリスがアシエントを得て奴隷貿易を拡大した。
例2「人権宣言と奴隷制廃止の関係」(150字程度):アメリカ独立宣言やフランス人権宣言は人間の平等を掲げたが、奴隷や女性は権利から外されていた。この矛盾に対し、サン=ドマングでは1791年に奴隷が蜂起し、1804年にハイチが独立した。フランスは1794年に奴隷制を廃止したのち復活させ、1848年に最終的に廃止した。イギリスも1807年に奴隷貿易を、1833年に奴隷制を廃止した。
| テーマ | 入れるべき用語 |
|---|---|
| 古代の奴隷制 | アテネ、ヘイロータイ、ラティフンディア、スパルタクスの反乱、コロヌス |
| 大西洋奴隷貿易 | エンコミエンダ制、ラス=カサス、プランテーション、三角貿易、アシエント、ユトレヒト条約 |
| 人権宣言と奴隷制 | 独立宣言、人権宣言、グージュ、トゥサン=ルヴェルチュール、ハイチ、国民公会 |
| 19世紀の廃止 | ウィルバーフォース、南北戦争、奴隷解放宣言、憲法修正第13条、農奴解放令、ミール |
| 20世紀の人権 | 世界人権宣言、国際人権規約、公民権法、キング牧師、アパルトヘイト、マンデラ |
確認問題
奴隷制と人権の歴史に出てきた用語を、一問一答で確かめましょう。答えはすべて本文の太字や表に出てきた語句です。まず答えを隠して解き、あやふやだった問題には印を付けて、該当する節を読み返してください。
- 1スパルタに征服された先住民の子孫で、土地を耕して収穫の一部を納めた人々を何という?ヘロットとも呼ばれ、身分は国家の規制のもとにあった
- 2古代ローマで、奴隷を使って経営された大規模な農場を何という?第2回ポエニ戦争のあとに急速に広がった
- 3前73年に奴隷反乱を起こした、トラキア出身の剣闘士は?前71年にクラッススらに鎮圧された
- 4中世西ヨーロッパで、家族や財産を持てたが移動の自由がなかった農民を何という?領主に賦役や貢納を課された
- 5イスラーム世界で、トルコ人などを買い入れて育てた奴隷軍人を何という?エジプトにはマムルーク朝も生まれた
- 6スペインが植民者に先住民の統治を任せ、貢納や労働を課す権利を与えた制度は?先住民の酷使と人口の激減を招いた
- 71552年に『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を刊行したスペインの聖職者は?エンコミエンダ制を批判し、先住民の保護を訴えた
- 81713年のユトレヒト条約でイギリスが得た、スペイン領への奴隷供給の契約を何という?イギリスは南海会社にこれを担わせた
- 91791年にサン=ドマングで始まった奴隷の蜂起を指導した人物は?1803年にフランスで亡くなった
- 101804年に独立を宣言した、世界最初の黒人の共和国は?ラテンアメリカで最初の独立国でもある
- 111807年のイギリスの奴隷貿易廃止に尽くした議員は?奴隷制そのものの廃止は1833年
- 121863年にリンカンが出した、反乱を起こした地域の奴隷を自由とする宣言は?制度としての廃止は1865年の憲法修正第13条
- 131861年に農奴解放令を出したロシアの皇帝は?クリミア戦争の敗北が背景にあった
- 141948年に国連総会で採択された、すべての国が達成すべき人権の共通の基準を示した宣言は?法的拘束力はない
- 151955年のモンゴメリーのバス・ボイコット運動を指導し、非暴力の運動を進めた人物は?1964年に公民権法が成立した
数日あけてから、もう一度この一覧に戻ってきてください。
ほかの時代の用語も確かめたいときは、世界史一問一答で地域や時代を混ぜて解いてみてください。
世界史 奴隷制・人権史の内容をまとめて復習できる解説つきの問題集(PDF・全19問)を用意しました。下のファイルをダウンロードして、印刷して使ってください。
テーマ史の勉強の進め方
通史では、古代の奴隷、奴隷貿易、奴隷制の廃止を別々の章で学びます。通史を終えたら、この記事のように奴隷制と人権の話だけを並べ直すと、「権利の宣言」と「実際の解放」の時間差が一本の流れとして見えてきます。
| 段階 | やること | 目安 |
|---|---|---|
| 1 | 通史で、古代・大航海時代・市民革命・19世紀の各国史を一度学ぶ | 世界史が一周したあと |
| 2 | 年表を見ながら、国と廃止の年を声に出して確認する | 1回10〜15分 |
| 3 | 国ごとの廃止の比較表を隠し、白紙に再現する | 書けなかった欄に印を付ける |
| 4 | 論述の要点を見ずに、150字で因果をまとめる | 数日おいて繰り返す |
関連するテーマ史とあわせて読むと、近代の世界の姿がより立体的に見えてきます。
通史とテーマ史をどの順番で進めればいいか、独学で間に合うかの判定方法は、世界史は独学で間に合う?で詳しく解説しています。論述の添削を頼める家庭教師やオンライン塾の選び方もまとめています。
関連するテーマ史・時代別の記事
奴隷制と人権の歴史は、人の移動、女性の権利、国際機構の歴史と重なる部分が多くあります。あわせて読むと理解が深まる記事を紹介します。
| 記事 | この記事とのつながり |
|---|---|
| 世界史のテーマ史:民族移動・移民史 | 奴隷貿易による強制的な移動や、苦力の移動の流れが分かる |
| 世界史のテーマ史:女性史 | 人権宣言から外された女性と、グージュの宣言のその後が分かる |
| 世界史のテーマ史:条約・国際会議史 | ユトレヒト条約などの国際的な取り決めを整理できる |
| 世界史のテーマ史:国際機構・地域統合史 | 国際連合と世界人権宣言・国際人権規約の関係が分かる |
| 世界史のテーマ史:地域別の縦断史(アフリカ・ラテンアメリカ編) | 奴隷貿易の影響や、ハイチ・ブラジルの歩みを地域ごとに追える |
| 古代ギリシア | 時代別の記事 |
| 古代ローマ | 時代別の記事 |
| ヨーロッパ史(2) | 時代別の記事 |
| 市民革命 | 時代別の記事 |
| 産業革命 | 時代別の記事 |
| 第二次世界大戦 | 時代別の記事 |
ほかのテーマも、世界史のテーマ史の一覧でまとめて確認できます。
まとめ
奴隷制は、古代の地中海世界から近代の大西洋世界まで、労働力を求める経済のしくみと結びついて続いてきました。一方で、17〜18世紀に広がった人権の考え方は、宣言のなかで掲げた理想と、奴隷制という現実との矛盾を浮かび上がらせました。この矛盾に対する抵抗と運動が、19世紀の奴隷制廃止、そして20世紀の国際的な人権保障へとつながっています。
| 段階 | 中心となる出来事 | 次の段階へ移った理由 |
|---|---|---|
| 古代・中世の隷属 | アテネの奴隷、ヘイロータイ、ラティフンディア、農奴、マムルーク | 大航海時代に、アメリカ大陸で大量の労働力が求められた |
| 大西洋奴隷貿易 | エンコミエンダ制、三角貿易、アシエント | 人権の考え方が広がり、奴隷の蜂起や廃止運動が起こった |
| 奴隷制の廃止 | ハイチ独立、イギリス・フランス・アメリカ・ブラジルの廃止、農奴解放令 | 廃止後も差別や過酷な契約労働が残った |
| 国際的な人権保障 | 世界人権宣言、国際人権規約、公民権法、アパルトヘイトの撤廃 | ― |
まず年表の「ポイント」の列で流れをつかみ、次に国ごとの廃止の比較表で年号を確かめ、最後に論述の要点を自分の言葉で書いてみてください。「宣言された権利」と「外された人々」という視点が、このテーマを説明する軸になります。











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