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Mino
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これまで7年以上にわたって120名以上(計1200コマ)の受験生を中学・高校・大学受験の文系科目を中心に担当。

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世界史 イスラーム史の流れ|成立から3つの帝国まで王朝を整理

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世界史 イスラーム史の流れ|成立から3つの帝国まで王朝を整理

イスラーム史は、世界史のテーマ史の中でも入試で問われる範囲がとくに広い分野です。7世紀のアラビア半島で生まれた宗教が、100年ほどで西はイベリア半島から東は中央アジアまで広がり、その後もいくつもの王朝が入れかわりながら、アジア・アフリカ・ヨーロッパの歴史と関わりました。

入試では、王朝の名前と都、宗派(スンナ派かシーア派か)、君主の称号(カリフかスルタンか)の組み合わせがよく問われます。また、「ウマイヤ朝とアッバース朝では何が変わったのか」「なぜスルタンという称号が生まれたのか」といった因果の説明は、論述問題でも定番です。

この記事では、イスラームの成立から17世紀の3つの帝国までを年表でつかみ、王朝どうしの違いと正誤問題で狙われるポイントを表で整理します。宗教の教えについては、信者がどう信じているかの説明にとどめています。

最後にこの記事の内容をまとめた確認プリントもあります!最後まで読み、プリントで復習してこの範囲を完璧にしましょう!

この記事で分かること該当する節
7世紀から17世紀までのイスラーム世界の王朝の流れまず全体像
各王朝が生まれた理由と、次の時代への変化時代ごとに詳しく見る
アラブ帝国とイスラーム帝国、カリフとスルタンの違い比べて覚える
王朝・都・宗派の組み合わせで誤りやすい点入試で狙われるポイント
論述で使える要点と用語論述で使える要点
目次(見たいところをクリックできます!)

まず全体像:イスラーム世界の流れを一枚でつかむ

イスラーム世界の歴史は、大きく見ると「1人のカリフのもとにまとまっていた時代」から「王朝が分かれ、政治の実権がカリフ以外の支配者に移る時代」へ、そして「16世紀に3つの大帝国が並び立つ時代」へと進みました。支配の中心になった人々も、アラブ人からイラン人、トルコ人、モンゴル人へと移っていきます。

下の年表では、王朝の成立や滅亡など、転換点になった出来事を中心に並べています。まずは「ポイント」の列を読み、誰が政治の中心にいたのかが移り変わっていく流れをつかんでください。

正統カリフ・ウマイヤ朝から、アッバース朝、10世紀の諸王朝、セルジューク朝・マムルーク朝、イル=ハン国・ティムール朝をへて16世紀の3つの帝国に至る王朝の流れを示す図
イスラーム世界の王朝の流れ
時代年号できごとポイント
成立期610年ころムハンマドが神の啓示を受けたとされる唯一神アッラーへの信仰を説く
成立期622年ヒジュラ(メディナへの移住)この年がイスラーム暦の元年
正統カリフ632年アブー=バクルがカリフにムハンマドの死後、共同体が指導者を選ぶ
正統カリフ642年ニハーヴァンドの戦いササン朝に大勝(651年にササン朝は滅亡)
ウマイヤ朝661年ウマイヤ朝の成立都ダマスクス。カリフの位が世襲に
ウマイヤ朝680年カルバラーでフサインが戦死シーア派が宗派としてのまとまりを強める
ウマイヤ朝711年西ゴート王国を滅ぼすイベリア半島に進出
ウマイヤ朝732年トゥール・ポワティエ間の戦いフランク王国に敗れる
アッバース朝750年アッバース朝の成立ムスリムの平等が進む
アッバース朝751年タラス河畔の戦い唐の軍を破る
分裂の始まり756年後ウマイヤ朝の成立イベリア半島、都コルドバ
3カリフ並立909年ファーティマ朝の成立シーア派の王朝がカリフを名のる
3カリフ並立946年ブワイフ朝がバグダードに入る大アミールとして政治の実権を握る
トルコ人の進出1038年セルジューク朝の成立トルコ系の王朝
トルコ人の進出1055年トゥグリル=ベクがバグダードに入るカリフからスルタンの称号を受ける
十字軍の時代1187年サラーフ=アッディーンがイェルサレムを奪回アイユーブ朝が十字軍に対抗
十字軍の時代1250年マムルーク朝の成立奴隷軍人出身の王朝、都カイロ
モンゴルの侵入1258年フラグがバグダードを攻略アッバース朝の滅亡
モンゴルの侵入1295年ガザン=ハンの即位イル=ハン国がイスラームを国教に
ティムール朝1370年ティムール朝の成立都サマルカンド
3つの帝国1453年オスマン帝国がコンスタンティノープルを攻略ビザンツ帝国の滅亡
イベリア半島1492年グラナダの陥落ナスル朝の滅亡
3つの帝国1501年サファヴィー朝の成立シーア派を国教とする
3つの帝国1517年オスマン帝国がマムルーク朝を滅ぼすメッカ・メディナを保護下に
3つの帝国1526年ムガル帝国の成立バーブルがロディー朝を破る

時代ごとに詳しく見る

ここからは、時代ごとに王朝の特徴と、次の時代へ移った理由を見ていきます。「宗教の上での権威」と「政治や軍事の実力」がだれの手にあるのかを意識して読むと、流れがつかみやすくなります。

イスラームの成立:ムハンマドとウンマ

6世紀の西アジアでは、ビザンツ帝国とササン朝が争いを繰り返していました。そのころアラビア半島西部のメッカは、クライシュ族の商人がシリアやイラクなどへ隊商を送る交易の町として栄えていました。同時に、多くの神々の像をまつるカーバ神殿があり、各地から巡礼者が集まる多神教の聖地でもありました。

メッカのクライシュ族に生まれたムハンマドは、610年ころ、唯一の神アッラーの啓示を受けたとして教えを説き始めました。神の前では人々は平等であると説き、偶像崇拝を否定して富裕な商人を批判したため、メッカの有力者から迫害を受けます。そこで622年、信者とともにメディナへ移りました。これをヒジュラ(移住)といい、のちにこの年がイスラーム暦の元年とされました。

メディナでムハンマドは、血縁や部族をこえて信者が結びつく共同体(ウンマ)をつくりました。630年にはメッカを征服してカーバ神殿の偶像を壊し、カーバを信仰の中心としました。632年に亡くなるころには、その影響はアラビア半島の大部分に及んでいました。「イスラーム」はアラビア語で神への服従を意味し、信者はムスリムと呼ばれます。

用語内容
クルアーンムハンマドに下された神の言葉を記したものとされる聖典。アラビア語で書かれ、114章からなる。第3代カリフのウスマーンのときに現在の形にまとめられた
六信信者が信じるべきものとされる6つ(アッラー・天使・啓典・預言者・来世・予定)
五行信者が行うべきものとされる5つの義務(信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼)

正統カリフ時代:大征服とスンナ派・シーア派の分かれ目

ムハンマドの死後、信者の共同体はアブー=バクルを指導者に選びました。彼が名のったカリフという称号は、「(神の使徒の)代理人・後継者」を意味します。最初の4代のカリフは共同体の中から選ばれて位につき、この時代(632〜661年)を正統カリフ時代と呼びます。

代カリフ在位主なできごと
1アブー=バクル632〜634年アラビア半島の反対勢力を抑え、征服を始める
2ウマル634〜644年642年にニハーヴァンドの戦いでササン朝に大勝
3ウスマーン644〜656年クルアーンが現在の形にまとめられる。のちに暗殺される
4アリー656〜661年シリア総督のムアーウィヤと争い、暗殺される

この時代、アラブ人のムスリムは征服地に建てた軍営都市(ミスル)に移り住みながら、大規模な征服を進めました。ササン朝の領土を併せ、シリアとエジプトをビザンツ帝国から奪ったことで、イスラーム世界の基本的な範囲が形づくられました。

一方、第4代のアリーはムハンマドのいとこで、ムハンマドの娘ファーティマの夫でした。アリーを支持する人々は「アリーの党派(シーア・アリー)」と呼ばれ、これがシーア派の名の由来です。シーア派は、共同体を導く正しい指導者(イマーム)はアリーとその子孫だけだと考えます。これに対し、ムハンマドの言行(スンナ)に従う多数派をスンナ派と呼び、正統カリフの4人とその後のカリフを認めました。

4人の正統カリフのあと、歴代カリフを認めるスンナ派と、アリーとその子孫だけを指導者とするシーア派に分かれたことと、680年のカルバラーの出来事を示す図
スンナ派とシーア派の分かれ目

ウマイヤ朝:アラブ人が支配する「アラブ帝国」

661年にアリーが暗殺されると、ウマイヤ家のムアーウィヤがダマスクスを都としてウマイヤ朝を開きました。ムアーウィヤは息子を後継者に指名し、カリフの位は世襲になります。680年、アリーの子フサインはカルバラーでウマイヤ朝の軍に包囲されて戦死しました。この出来事をきっかけに、シーア派は宗教的な性格を強め、1つの宗派として発展していきます。

ウマイヤ朝は征服を続け、711年には西ゴート王国を滅ぼしてイベリア半島に入り、東は中央アジアにまで支配を広げました。しかし、732年にはトゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国の宮宰カール=マルテルに敗れ、西ヨーロッパへの進出は止まりました。国内ではアラビア語が公用語とされ、行政の言葉が統一されました。

ウマイヤ朝の支配は、征服者であるアラブ人が特権を持つしくみでした。征服地の住民がイスラームに改宗しても、租税の免除は認められず、ジズヤ(人頭税)やハラージュ(地租)を納めさせられました。こうした非アラブ人の改宗者はマワーリーと呼ばれ、アラブ人との平等を求めて不満を強めていきます。このため、ウマイヤ朝はアラブ帝国とも呼ばれます。

アッバース朝:ムスリムが平等な「イスラーム帝国」へ

ウマイヤ朝の末期には、アラブ人どうしの部族の対立、マワーリーの不満、シーア派の反政府活動が重なりました。ムハンマドのおじアッバースの子孫を指導者に掲げた運動は、イラン東部のホラーサーンで改宗したイラン人などを率いて兵を挙げ、750年にウマイヤ朝を倒してアッバース朝を開きました。その翌年の751年には、中央アジアのタラス河畔の戦いで唐の軍を破っています。

第2代カリフのマンスールは、762年からティグリス川の西岸に円形の新しい都バグダードを建設しました。官僚制度や常備軍を整えたアッバース朝は、第5代のハールーン=アッラシードの時代に最盛期を迎えます。

アッバース朝の第2代カリフのマンスールは、762年からティグリス川のほとりに円形の都バグダードを建設しました

アッバース朝では、アラブ人が持っていた免税などの特権がなくなりました。ムスリムであれば民族に関係なくジズヤを納める必要はなくなり、その一方で、土地を持つ者はアラブ人であってもハラージュを納めることになりました。改宗したイラン人などの非アラブ人も、国家の重要な地位に登用されました。イスラームの原理にもとづいて国家が運営されたことから、アッバース朝はイスラーム帝国と呼ばれます。

ウマイヤ朝とアッバース朝で、アラブ人のムスリム・改宗した非アラブ人・非ムスリムがジズヤとハラージュを納めたかどうかを比べた表
アラブ帝国からイスラーム帝国へ

10世紀の分裂:3人のカリフが並び立つ

アッバース朝が成立したとき、ウマイヤ家の一族はほとんどが殺されましたが、逃れたアブド=アッラフマーン1世がイベリア半島に渡り、756年にコルドバを都として後ウマイヤ朝を開きました。ただし、当初はカリフではなくアミールを名のっていました。

909年には、北アフリカのチュニジアでシーア派の一派イスマーイール派のファーティマ朝が成立し、アッバース朝に対抗してカリフを名のりました。ファーティマ朝は969年にエジプトを征服して新しい都カイロを建設し、アズハル学院を建てました。これに対抗して、後ウマイヤ朝のアブド=アッラフマーン3世も929年にカリフを名のります。こうして10世紀には、3人のカリフが並び立つことになりました。

王朝都宗派カリフを名のった時期
アッバース朝バグダードスンナ派750年の成立時から
ファーティマ朝チュニジア、のちカイロシーア派(イスマーイール派)909年の成立時から
後ウマイヤ朝コルドバスンナ派929年(アブド=アッラフマーン3世)から
コルドバの後ウマイヤ朝、カイロのファーティマ朝、バグダードのアッバース朝の3人のカリフと、ブワイフ朝の大アミールを示す図
10世紀、3人のカリフ

一方、アッバース朝の内部でも、財政の行きづまりとともにカリフの力が弱まりました。イラン系でシーア派のブワイフ朝は、946年にバグダードに入り、カリフから大アミールに任じられて政治の実権を握ります。ブワイフ朝はスンナ派のカリフを廃止せず、その権威を利用して支配を正当化しました。この結果、カリフは宗教上の権威にとどまり、政治は別の支配者が行うという形が生まれます。ブワイフ朝は、軍人に俸給の代わりに土地から税を取る権利を与えるイクター制を始めました。

トルコ人の進出:セルジューク朝から十字軍との戦い、マムルーク朝まで

9世紀ころから、トルコ人などの奴隷軍人(マムルーク)がイスラーム世界の軍隊の中核になっていきました。やがて、イスラームを受け入れたトルコ人自身が王朝を建てます。1038年に成立したセルジューク朝のトゥグリル=ベクは、1055年にブワイフ朝に代わってバグダードに入り、アッバース朝のカリフからスルタンの称号を受けました。スルタンは、カリフから政治と軍事の支配を任された者の称号です。

スンナ派のセルジューク朝は、宰相ニザーム=アルムルクがバグダードなどにニザーミーヤ学院を建て、スンナ派の学問の振興と官僚の養成を進めました。イクター制も広く行われるようになります。1071年にはマンジケルトの戦いでビザンツ帝国の軍を破り、これを機にトルコ人がアナトリア(小アジア)へ進出しました。トルコ人の進出がビザンツ帝国をおびやかしたことが、十字軍の背景になります。

セルジューク朝の宰相ニザーム=アルムルクは、バグダードなどにニザーミーヤ学院を建て、スンナ派の学問の振興と官僚の養成を進めました

十字軍に対するイスラーム側の反撃の中心になったのは、クルド人のサラーフ=アッディーン(サラディン)です。彼は1169年にファーティマ朝の宰相となってエジプトの実権を握り、スンナ派のアイユーブ朝を開きました。1171年にはファーティマ朝を終わらせ、1187年に十字軍からイェルサレムを奪い返しています。

1250年には、アイユーブ朝のトルコ系マムルークが実権を握り、カイロを都とするマムルーク朝が成立しました。1260年にはアイン=ジャールートの戦いでモンゴル軍を撃退します。この戦いで活躍してスルタンとなったバイバルスは、アッバース家のカリフをカイロに迎えて保護しました。カイロはインド洋と地中海を結ぶ交易で栄え、イスラーム世界の中心都市になりました。

モンゴルの侵入とティムール朝

13世紀半ば、モンゴル帝国のフラグが1258年にバグダードを攻め落としてアッバース朝を滅ぼし、イランを中心にイル=ハン国を建てました。はじめ、イル=ハン国の支配者はイスラームを受け入れず、キリスト教国に近づいてマムルーク朝と争いました。しかし、1295年に即位したガザン=ハンがイスラームを国教とし、モンゴル人の支配者もイスラーム世界の一員となっていきます。

14世紀後半には、トルコ化しイスラーム化したモンゴル系の家に生まれたティムールが、1370年にサマルカンドを都としてティムール朝を建てました。ティムールは各地の職人や学者を都に集め、1402年にはアンカラの戦いでオスマン帝国を破っています。ティムール朝は16世紀の初めにウズベクに滅ぼされますが、その子孫のバーブルが、のちにインドでムガル帝国を開きます。

周辺への広がり:イベリア半島・アフリカ・インド・東南アジア

イスラームは周辺の地域にも広がりました。神との一体化をめざす神秘主義(スーフィズム)は12世紀ころから教団をつくり、民衆の間に広まりました。交易で栄えた港町の王国がイスラームを受け入れた例もあります。各地域の詳しい歴史は地域別の縦断史に譲り、ここでは表で見ておきます。

地域主な王朝・国押さえる点
イベリア半島後ウマイヤ朝、ムラービト朝・ムワッヒド朝、ナスル朝北アフリカのベルベル人の王朝も進出。最後のナスル朝は都グラナダにアルハンブラ宮殿を建てたが、1492年にグラナダが陥落
西アフリカムラービト朝、マリ王国ムラービト朝が1076年ごろガーナ王国を攻撃。マリ王国のマンサ=ムーサは1324年からメッカに巡礼
インドガズナ朝・ゴール朝、デリー=スルタン朝、ムガル帝国1206年、ゴール朝の奴隷出身の武将アイバクが奴隷王朝を開く。以後デリーを都とする5つの王朝が続く
東南アジアマラッカ王国15世紀にイスラームを受け入れ、交易の中心として東南アジアのイスラーム化に大きな影響を与えた

インドのデリー=スルタン朝は、奴隷王朝・ハルジー朝・トゥグルク朝・サイイド朝・ロディー朝の5つの王朝の総称です。最後のロディー朝だけがアフガン系で、ほかの4つはトルコ系でした。1526年、ロディー朝がパーニーパットの戦いでバーブルに敗れ、ムガル帝国の時代に移ります。

3つの帝国:オスマン帝国・サファヴィー朝・ムガル帝国

16世紀には、スンナ派のオスマン帝国、シーア派のサファヴィー朝、インドのムガル帝国という3つの大帝国が並び立ちました。

オスマン帝国は、1299年ころにオスマン1世がアナトリア北西部で建てた国から始まりました。1453年にはメフメト2世がコンスタンティノープルを攻め落としてビザンツ帝国を滅ぼし、イスタンブルと改めて都としました。1517年にはセリム1世がマムルーク朝を滅ぼし、メッカとメディナの保護者となります。最盛期のスレイマン1世は1529年にウィーンを包囲し、1538年のプレヴェザの海戦で地中海の制海権を握りました。1571年のレパントの海戦ではスペインなどの連合艦隊に敗れましたが、東地中海での優位はその後も保たれました。

オスマン帝国は1453年にコンスタンティノープルを攻略し、イスタンブルと改めて都としました

オスマン帝国は、キリスト教徒の少年を集めてイスラームに改宗させ、訓練して官僚や軍人に育てるデヴシルメという制度を持っていました。こうして編成されたスルタン直属の常備歩兵軍団がイェニチェリです。また、ギリシア正教徒・アルメニア教会の信徒・ユダヤ教徒などの非ムスリムには、宗教ごとの共同体(ミッレト)をつくらせ、納税と引きかえに自治を認めました。

イランでは、神秘主義教団の長であったイスマーイール1世が1501年にタブリーズで即位し、サファヴィー朝を開きました。サファヴィー朝はシーア派の十二イマーム派を国教とし、君主はシャーを名のりました。スンナ派のオスマン帝国とは対立し、1514年にはチャルディラーンの戦いでセリム1世に敗れています。最盛期のアッバース1世が16世紀末に都としたイスファハーンは、「世界の半分」とたたえられるほど栄えました。

インドのムガル帝国では、第3代のアクバルが、ヒンドゥー教徒の有力者を味方につけ、非ムスリムにかかるジズヤを廃止して融和を図りました。第5代のシャー=ジャハーンは、亡き妃のためにアグラにタージ=マハルを建てています。第6代のアウラングゼーブは領土を最大にしましたが、厳格なスンナ派の立場からジズヤを復活させたため、ヒンドゥー教徒やシク教徒などの反発を招き、帝国が衰える原因をつくりました。

オスマン帝国・サファヴィー朝・ムガル帝国を、成立・都・宗派・代表的な君主で比べた表
3つの帝国を比べる
項目オスマン帝国サファヴィー朝ムガル帝国
成立1299年ころ1501年1526年
主な都イスタンブルタブリーズ、のちイスファハーンデリー・アグラ
宗派スンナ派シーア派(十二イマーム派)を国教皇帝はスンナ派
代表的な君主スレイマン1世アッバース1世アクバル、アウラングゼーブ
統治の特徴ミッレトに自治を認める君主はシャーを名のるジズヤの廃止と復活

比べて覚える

イスラーム史で最も混同しやすいのが、ウマイヤ朝とアッバース朝の違いです。「だれが税を納めたか」「だれが要職についたか」の2点で並べると、アラブ帝国からイスラーム帝国への変化がはっきりします。

項目ウマイヤ朝(アラブ帝国)アッバース朝(イスラーム帝国)
成立と都661年、ダマスクス750年、のちバグダード
ジズヤ(人頭税)改宗した非アラブ人(マワーリー)も負担ムスリムは負担しない(非ムスリムだけ)
ハラージュ(地租)非アラブ人が負担し、アラブ人は事実上免除土地を持つ者はアラブ人でも負担
要職アラブ人が独占改宗したイラン人なども登用
主な対外戦争トゥール・ポワティエ間の戦い(732年)タラス河畔の戦い(751年)

もう一つ大切なのが、カリフとスルタンの違いです。10世紀以降、実際の政治は大アミールやスルタンが担うようになりました。

カリフが宗教上の権威、スルタンが政治・軍事の実権を持つ関係と、ブワイフ朝・セルジューク朝・マムルーク朝の流れを示す図
カリフとスルタンの関係
項目カリフスルタン
もとの意味(神の使徒の)代理人・後継者権力・権力者
役割イスラーム共同体の指導者。10世紀以降は宗教上の権威が中心カリフから任された政治・軍事の支配者
代表例正統カリフ、ウマイヤ朝・アッバース朝の君主セルジューク朝のトゥグリル=ベク、マムルーク朝のバイバルス

入試で狙われるポイント

正誤問題では、王朝と都、王朝と宗派、出来事と王朝の組み合わせをずらした選択肢がよく出されます。左の列のような文を見たら、どこがずれているかを右の列で確かめ、正しい組み合わせを言えるようにしておきましょう。

誤りやすい記述正しい内容
ヒジュラは、ムハンマドがメッカを征服したことを指す622年のメディナへの移住。メッカの征服は630年
ウマイヤ朝は都をバグダードに置いたウマイヤ朝の都はダマスクス。バグダードはアッバース朝の都
ウマイヤ朝では、改宗すればジズヤが免除された改宗した非アラブ人も免除されなかった。免除はアッバース朝から
タラス河畔の戦いでウマイヤ朝が唐を破った751年、アッバース朝が唐を破った。732年のトゥール・ポワティエ間の戦いはウマイヤ朝
ファーティマ朝はスンナ派の王朝であるシーア派(イスマーイール派)の王朝で、カイロを建設した
ブワイフ朝のトゥグリル=ベクがスルタンの称号を受けたセルジューク朝のトゥグリル=ベク。ブワイフ朝は大アミール
イェルサレムを奪回したのはマムルーク朝であるアイユーブ朝のサラーフ=アッディーン(1187年)
サファヴィー朝はスンナ派を国教としたシーア派(十二イマーム派)を国教とし、スンナ派のオスマン帝国と対立
アクバルはジズヤを復活させたアクバルは廃止し、アウラングゼーブが復活させた

順序の問題では、「ウマイヤ朝→アッバース朝→(後ウマイヤ朝・ファーティマ朝・ブワイフ朝)→セルジューク朝→アイユーブ朝→マムルーク朝→オスマン帝国」という中心の流れに、モンゴルのイル=ハン国とティムール朝を横から差し込む形で覚えると整理しやすくなります。

論述で使える要点

論述では、王朝の名前を並べるだけでなく、「なぜ支配のしくみが変わったのか」を税や民族の関係と結びつけて説明することが求められます。よく問われる2つのテーマについて、要点の例を示します。

例1「ウマイヤ朝からアッバース朝への変化」(150字程度):ウマイヤ朝ではアラブ人が特権を持ち、改宗した非アラブ人(マワーリー)もジズヤやハラージュを納めたため、不満が高まった。750年に成立したアッバース朝では、ムスリムであればジズヤを免除し、土地を持つ者はアラブ人でもハラージュを納めることとし、非アラブ人も要職に登用した。こうしてアラブ帝国はイスラーム帝国へと変わった。

例2「カリフの権威とスルタン」(130字程度):10世紀、アッバース朝の力が弱まると、ブワイフ朝がバグダードに入って大アミールとして実権を握った。続いてセルジューク朝のトゥグリル=ベクは、1055年にバグダードに入り、カリフからスルタンの称号を受けた。カリフは宗教上の権威にとどまり、政治はスルタンが担う形になった。

テーマ入れるべき用語
イスラームの成立ムハンマド、メッカ、ヒジュラ、メディナ、ウンマ、クルアーン
アラブ帝国からイスラーム帝国へウマイヤ朝、マワーリー、ジズヤ、ハラージュ、アッバース朝、バグダード
カリフとスルタン3カリフの並立、ブワイフ朝、大アミール、イクター制、セルジューク朝、トゥグリル=ベク
3つの帝国と宗派オスマン帝国、ミッレト、サファヴィー朝、十二イマーム派、ムガル帝国、アクバル、アウラングゼーブ

確認問題

イスラーム史に出てきた用語を、一問一答で確かめましょう。答えはすべて本文に出てきた語句です。まず答えを隠したまま解き、あやふやだった問題には印を付けて、あとで該当する節を読み返してください。

イスラーム史 確認問題全15問
○ 0△ 0× 0残り 15
  1. 1622年、ムハンマドが信者とともにメッカからメディナへ移ったことを何という?
    イスラーム暦の元年
  2. 2ムハンマドがメディナでつくった、血縁をこえた信者の共同体を何という?
    血縁や部族をこえて信者が結びついた
  3. 3「代理人・後継者」を意味する、ムハンマドの死後の指導者の称号は?
    最初に名のったのはアブー=バクル
  4. 4アリーとその子孫だけを正しい指導者とする宗派は?
    名前は「アリーの党派」に由来する
  5. 5661年にダマスクスを都としてウマイヤ朝を開いた人物は?
    カリフの位は世襲になった
  6. 6ウマイヤ朝で、イスラームに改宗した非アラブ人を何と呼んだ?
    改宗しても租税の免除は認められなかった
  7. 7アッバース朝の第2代カリフで、バグダードを建設したのは?
    762年に建設が始まった
  8. 8909年に北アフリカで成立し、のちにカイロを建設したシーア派の王朝は?
    アッバース朝に対抗してカリフを名のった
  9. 9946年にバグダードに入り、大アミールとして実権を握ったイラン系の王朝は?
    イクター制を始めた
  10. 101055年にバグダードに入り、カリフからスルタンの称号を受けたセルジューク朝の君主は?
    セルジューク朝はスンナ派
  11. 111187年に十字軍からイェルサレムを奪回したアイユーブ朝の創始者は?
    サラディンとも呼ばれる
  12. 121258年にバグダードを攻略してアッバース朝を滅ぼしたモンゴルの指揮官は?
    イランを中心にイル=ハン国を建てた
  13. 131453年にコンスタンティノープルを攻略したオスマン帝国のスルタンは?
    都をイスタンブルと改めた
  14. 14オスマン帝国で、キリスト教徒の少年を改宗させて育てた兵士からなるスルタン直属の歩兵軍団は?
    集める制度をデヴシルメという
  15. 15シーア派の十二イマーム派を国教とした、1501年成立のイランの王朝は?
    君主はシャーを名のった
1 / 15
全15問おつかれさまでした×を付けた問題だけをもう一度解くと、記憶が定着しやすくなります。
数日あけてから、もう一度この一覧に戻ってきてください。
スペースキーで答えを表示/←→で移動

ほかの時代の用語も確かめたいときは、世界史一問一答で地域や時代を混ぜて解いてみてください。

世界史 イスラーム史の内容をまとめて復習できる解説つきの問題集(PDF・全19問)を用意しました。下のファイルをダウンロードして、印刷して使ってください。

テーマ史の勉強の進め方

世界史の通史では、イスラーム世界の話がいくつもの章に分かれて登場するため、ウマイヤ朝と後ウマイヤ朝のように似た名前の王朝がばらばらの知識になりがちです。通史を終えた段階で王朝を一本の流れに並べ直すと、「宗教の権威と政治の実権がどう分かれていったか」という筋が見えてきます。

段階やること目安
1通史で、西アジア・北アフリカの王朝を一度学ぶイスラーム世界の章が一周したあと
2年表を見ながら、王朝・都・宗派の組み合わせを声に出して確認する1回10〜15分
3ウマイヤ朝とアッバース朝の比較表を隠し、白紙に再現する書けなかった欄に印をつける
4論述の要点を見ずに、150字で因果をまとめてみる数日おいて繰り返す

通史とテーマ史をどの順番で進めればいいか、独学で間に合うかの判定方法は、世界史は独学で間に合う?で詳しく解説しています。論述の添削を頼める家庭教師やオンライン塾の選び方もまとめています。

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まとめ

イスラーム世界は、ムハンマドのもとで生まれた信者の共同体から出発し、アラブ人が支配するウマイヤ朝、ムスリムの平等をめざしたアッバース朝へと移りました。10世紀以降はカリフの政治的な力が弱まり、大アミールやスルタンが実権を握る時代を経て、16世紀には3つの大帝国が並び立ちました。

段階中心となる王朝変化のきっかけ
カリフが統一して支配正統カリフ、ウマイヤ朝、アッバース朝非アラブ人の不満がアッバース朝の成立を支えた
カリフの並立と実権の移動後ウマイヤ朝・ファーティマ朝、ブワイフ朝、セルジューク朝財政の行きづまりでカリフの力が弱まり、大アミールやスルタンが実権を握った
3つの帝国オスマン帝国、サファヴィー朝、ムガル帝国1258年にアッバース朝が滅んだあと、新しい王朝が各地で力をのばした

まず年表の「ポイント」の列で流れをつかみ、次に比較の表でウマイヤ朝とアッバース朝、カリフとスルタンの違いを確かめ、最後に論述の要点を自分の言葉で書いてみてください。

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