イスラーム史は、世界史のテーマ史の中でも入試で問われる範囲がとくに広い分野です。7世紀のアラビア半島で生まれた宗教が、100年ほどで西はイベリア半島から東は中央アジアまで広がり、その後もいくつもの王朝が入れかわりながら、アジア・アフリカ・ヨーロッパの歴史と関わりました。
入試では、王朝の名前と都、宗派(スンナ派かシーア派か)、君主の称号(カリフかスルタンか)の組み合わせがよく問われます。また、「ウマイヤ朝とアッバース朝では何が変わったのか」「なぜスルタンという称号が生まれたのか」といった因果の説明は、論述問題でも定番です。
この記事では、イスラームの成立から17世紀の3つの帝国までを年表でつかみ、王朝どうしの違いと正誤問題で狙われるポイントを表で整理します。宗教の教えについては、信者がどう信じているかの説明にとどめています。

最後にこの記事の内容をまとめた確認プリントもあります!最後まで読み、プリントで復習してこの範囲を完璧にしましょう!
| この記事で分かること | 該当する節 |
|---|---|
| 7世紀から17世紀までのイスラーム世界の王朝の流れ | まず全体像 |
| 各王朝が生まれた理由と、次の時代への変化 | 時代ごとに詳しく見る |
| アラブ帝国とイスラーム帝国、カリフとスルタンの違い | 比べて覚える |
| 王朝・都・宗派の組み合わせで誤りやすい点 | 入試で狙われるポイント |
| 論述で使える要点と用語 | 論述で使える要点 |
まず全体像:イスラーム世界の流れを一枚でつかむ
イスラーム世界の歴史は、大きく見ると「1人のカリフのもとにまとまっていた時代」から「王朝が分かれ、政治の実権がカリフ以外の支配者に移る時代」へ、そして「16世紀に3つの大帝国が並び立つ時代」へと進みました。支配の中心になった人々も、アラブ人からイラン人、トルコ人、モンゴル人へと移っていきます。
下の年表では、王朝の成立や滅亡など、転換点になった出来事を中心に並べています。まずは「ポイント」の列を読み、誰が政治の中心にいたのかが移り変わっていく流れをつかんでください。


| 時代 | 年号 | できごと | ポイント |
|---|---|---|---|
| 成立期 | 610年ころ | ムハンマドが神の啓示を受けたとされる | 唯一神アッラーへの信仰を説く |
| 成立期 | 622年 | ヒジュラ(メディナへの移住) | この年がイスラーム暦の元年 |
| 正統カリフ | 632年 | アブー=バクルがカリフに | ムハンマドの死後、共同体が指導者を選ぶ |
| 正統カリフ | 642年 | ニハーヴァンドの戦い | ササン朝に大勝(651年にササン朝は滅亡) |
| ウマイヤ朝 | 661年 | ウマイヤ朝の成立 | 都ダマスクス。カリフの位が世襲に |
| ウマイヤ朝 | 680年 | カルバラーでフサインが戦死 | シーア派が宗派としてのまとまりを強める |
| ウマイヤ朝 | 711年 | 西ゴート王国を滅ぼす | イベリア半島に進出 |
| ウマイヤ朝 | 732年 | トゥール・ポワティエ間の戦い | フランク王国に敗れる |
| アッバース朝 | 750年 | アッバース朝の成立 | ムスリムの平等が進む |
| アッバース朝 | 751年 | タラス河畔の戦い | 唐の軍を破る |
| 分裂の始まり | 756年 | 後ウマイヤ朝の成立 | イベリア半島、都コルドバ |
| 3カリフ並立 | 909年 | ファーティマ朝の成立 | シーア派の王朝がカリフを名のる |
| 3カリフ並立 | 946年 | ブワイフ朝がバグダードに入る | 大アミールとして政治の実権を握る |
| トルコ人の進出 | 1038年 | セルジューク朝の成立 | トルコ系の王朝 |
| トルコ人の進出 | 1055年 | トゥグリル=ベクがバグダードに入る | カリフからスルタンの称号を受ける |
| 十字軍の時代 | 1187年 | サラーフ=アッディーンがイェルサレムを奪回 | アイユーブ朝が十字軍に対抗 |
| 十字軍の時代 | 1250年 | マムルーク朝の成立 | 奴隷軍人出身の王朝、都カイロ |
| モンゴルの侵入 | 1258年 | フラグがバグダードを攻略 | アッバース朝の滅亡 |
| モンゴルの侵入 | 1295年 | ガザン=ハンの即位 | イル=ハン国がイスラームを国教に |
| ティムール朝 | 1370年 | ティムール朝の成立 | 都サマルカンド |
| 3つの帝国 | 1453年 | オスマン帝国がコンスタンティノープルを攻略 | ビザンツ帝国の滅亡 |
| イベリア半島 | 1492年 | グラナダの陥落 | ナスル朝の滅亡 |
| 3つの帝国 | 1501年 | サファヴィー朝の成立 | シーア派を国教とする |
| 3つの帝国 | 1517年 | オスマン帝国がマムルーク朝を滅ぼす | メッカ・メディナを保護下に |
| 3つの帝国 | 1526年 | ムガル帝国の成立 | バーブルがロディー朝を破る |
時代ごとに詳しく見る
ここからは、時代ごとに王朝の特徴と、次の時代へ移った理由を見ていきます。「宗教の上での権威」と「政治や軍事の実力」がだれの手にあるのかを意識して読むと、流れがつかみやすくなります。
イスラームの成立:ムハンマドとウンマ
6世紀の西アジアでは、ビザンツ帝国とササン朝が争いを繰り返していました。そのころアラビア半島西部のメッカは、クライシュ族の商人がシリアやイラクなどへ隊商を送る交易の町として栄えていました。同時に、多くの神々の像をまつるカーバ神殿があり、各地から巡礼者が集まる多神教の聖地でもありました。
メッカのクライシュ族に生まれたムハンマドは、610年ころ、唯一の神アッラーの啓示を受けたとして教えを説き始めました。神の前では人々は平等であると説き、偶像崇拝を否定して富裕な商人を批判したため、メッカの有力者から迫害を受けます。そこで622年、信者とともにメディナへ移りました。これをヒジュラ(移住)といい、のちにこの年がイスラーム暦の元年とされました。
メディナでムハンマドは、血縁や部族をこえて信者が結びつく共同体(ウンマ)をつくりました。630年にはメッカを征服してカーバ神殿の偶像を壊し、カーバを信仰の中心としました。632年に亡くなるころには、その影響はアラビア半島の大部分に及んでいました。「イスラーム」はアラビア語で神への服従を意味し、信者はムスリムと呼ばれます。
| 用語 | 内容 |
|---|---|
| クルアーン | ムハンマドに下された神の言葉を記したものとされる聖典。アラビア語で書かれ、114章からなる。第3代カリフのウスマーンのときに現在の形にまとめられた |
| 六信 | 信者が信じるべきものとされる6つ(アッラー・天使・啓典・預言者・来世・予定) |
| 五行 | 信者が行うべきものとされる5つの義務(信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼) |
正統カリフ時代:大征服とスンナ派・シーア派の分かれ目
ムハンマドの死後、信者の共同体はアブー=バクルを指導者に選びました。彼が名のったカリフという称号は、「(神の使徒の)代理人・後継者」を意味します。最初の4代のカリフは共同体の中から選ばれて位につき、この時代(632〜661年)を正統カリフ時代と呼びます。
| 代 | カリフ | 在位 | 主なできごと |
|---|---|---|---|
| 1 | アブー=バクル | 632〜634年 | アラビア半島の反対勢力を抑え、征服を始める |
| 2 | ウマル | 634〜644年 | 642年にニハーヴァンドの戦いでササン朝に大勝 |
| 3 | ウスマーン | 644〜656年 | クルアーンが現在の形にまとめられる。のちに暗殺される |
| 4 | アリー | 656〜661年 | シリア総督のムアーウィヤと争い、暗殺される |
この時代、アラブ人のムスリムは征服地に建てた軍営都市(ミスル)に移り住みながら、大規模な征服を進めました。ササン朝の領土を併せ、シリアとエジプトをビザンツ帝国から奪ったことで、イスラーム世界の基本的な範囲が形づくられました。
一方、第4代のアリーはムハンマドのいとこで、ムハンマドの娘ファーティマの夫でした。アリーを支持する人々は「アリーの党派(シーア・アリー)」と呼ばれ、これがシーア派の名の由来です。シーア派は、共同体を導く正しい指導者(イマーム)はアリーとその子孫だけだと考えます。これに対し、ムハンマドの言行(スンナ)に従う多数派をスンナ派と呼び、正統カリフの4人とその後のカリフを認めました。


ウマイヤ朝:アラブ人が支配する「アラブ帝国」
661年にアリーが暗殺されると、ウマイヤ家のムアーウィヤがダマスクスを都としてウマイヤ朝を開きました。ムアーウィヤは息子を後継者に指名し、カリフの位は世襲になります。680年、アリーの子フサインはカルバラーでウマイヤ朝の軍に包囲されて戦死しました。この出来事をきっかけに、シーア派は宗教的な性格を強め、1つの宗派として発展していきます。
ウマイヤ朝は征服を続け、711年には西ゴート王国を滅ぼしてイベリア半島に入り、東は中央アジアにまで支配を広げました。しかし、732年にはトゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国の宮宰カール=マルテルに敗れ、西ヨーロッパへの進出は止まりました。国内ではアラビア語が公用語とされ、行政の言葉が統一されました。
ウマイヤ朝の支配は、征服者であるアラブ人が特権を持つしくみでした。征服地の住民がイスラームに改宗しても、租税の免除は認められず、ジズヤ(人頭税)やハラージュ(地租)を納めさせられました。こうした非アラブ人の改宗者はマワーリーと呼ばれ、アラブ人との平等を求めて不満を強めていきます。このため、ウマイヤ朝はアラブ帝国とも呼ばれます。
アッバース朝:ムスリムが平等な「イスラーム帝国」へ
ウマイヤ朝の末期には、アラブ人どうしの部族の対立、マワーリーの不満、シーア派の反政府活動が重なりました。ムハンマドのおじアッバースの子孫を指導者に掲げた運動は、イラン東部のホラーサーンで改宗したイラン人などを率いて兵を挙げ、750年にウマイヤ朝を倒してアッバース朝を開きました。その翌年の751年には、中央アジアのタラス河畔の戦いで唐の軍を破っています。
第2代カリフのマンスールは、762年からティグリス川の西岸に円形の新しい都バグダードを建設しました。官僚制度や常備軍を整えたアッバース朝は、第5代のハールーン=アッラシードの時代に最盛期を迎えます。


アッバース朝では、アラブ人が持っていた免税などの特権がなくなりました。ムスリムであれば民族に関係なくジズヤを納める必要はなくなり、その一方で、土地を持つ者はアラブ人であってもハラージュを納めることになりました。改宗したイラン人などの非アラブ人も、国家の重要な地位に登用されました。イスラームの原理にもとづいて国家が運営されたことから、アッバース朝はイスラーム帝国と呼ばれます。


10世紀の分裂:3人のカリフが並び立つ
アッバース朝が成立したとき、ウマイヤ家の一族はほとんどが殺されましたが、逃れたアブド=アッラフマーン1世がイベリア半島に渡り、756年にコルドバを都として後ウマイヤ朝を開きました。ただし、当初はカリフではなくアミールを名のっていました。
909年には、北アフリカのチュニジアでシーア派の一派イスマーイール派のファーティマ朝が成立し、アッバース朝に対抗してカリフを名のりました。ファーティマ朝は969年にエジプトを征服して新しい都カイロを建設し、アズハル学院を建てました。これに対抗して、後ウマイヤ朝のアブド=アッラフマーン3世も929年にカリフを名のります。こうして10世紀には、3人のカリフが並び立つことになりました。
| 王朝 | 都 | 宗派 | カリフを名のった時期 |
|---|---|---|---|
| アッバース朝 | バグダード | スンナ派 | 750年の成立時から |
| ファーティマ朝 | チュニジア、のちカイロ | シーア派(イスマーイール派) | 909年の成立時から |
| 後ウマイヤ朝 | コルドバ | スンナ派 | 929年(アブド=アッラフマーン3世)から |


一方、アッバース朝の内部でも、財政の行きづまりとともにカリフの力が弱まりました。イラン系でシーア派のブワイフ朝は、946年にバグダードに入り、カリフから大アミールに任じられて政治の実権を握ります。ブワイフ朝はスンナ派のカリフを廃止せず、その権威を利用して支配を正当化しました。この結果、カリフは宗教上の権威にとどまり、政治は別の支配者が行うという形が生まれます。ブワイフ朝は、軍人に俸給の代わりに土地から税を取る権利を与えるイクター制を始めました。
トルコ人の進出:セルジューク朝から十字軍との戦い、マムルーク朝まで
9世紀ころから、トルコ人などの奴隷軍人(マムルーク)がイスラーム世界の軍隊の中核になっていきました。やがて、イスラームを受け入れたトルコ人自身が王朝を建てます。1038年に成立したセルジューク朝のトゥグリル=ベクは、1055年にブワイフ朝に代わってバグダードに入り、アッバース朝のカリフからスルタンの称号を受けました。スルタンは、カリフから政治と軍事の支配を任された者の称号です。
スンナ派のセルジューク朝は、宰相ニザーム=アルムルクがバグダードなどにニザーミーヤ学院を建て、スンナ派の学問の振興と官僚の養成を進めました。イクター制も広く行われるようになります。1071年にはマンジケルトの戦いでビザンツ帝国の軍を破り、これを機にトルコ人がアナトリア(小アジア)へ進出しました。トルコ人の進出がビザンツ帝国をおびやかしたことが、十字軍の背景になります。


十字軍に対するイスラーム側の反撃の中心になったのは、クルド人のサラーフ=アッディーン(サラディン)です。彼は1169年にファーティマ朝の宰相となってエジプトの実権を握り、スンナ派のアイユーブ朝を開きました。1171年にはファーティマ朝を終わらせ、1187年に十字軍からイェルサレムを奪い返しています。
1250年には、アイユーブ朝のトルコ系マムルークが実権を握り、カイロを都とするマムルーク朝が成立しました。1260年にはアイン=ジャールートの戦いでモンゴル軍を撃退します。この戦いで活躍してスルタンとなったバイバルスは、アッバース家のカリフをカイロに迎えて保護しました。カイロはインド洋と地中海を結ぶ交易で栄え、イスラーム世界の中心都市になりました。
モンゴルの侵入とティムール朝
13世紀半ば、モンゴル帝国のフラグが1258年にバグダードを攻め落としてアッバース朝を滅ぼし、イランを中心にイル=ハン国を建てました。はじめ、イル=ハン国の支配者はイスラームを受け入れず、キリスト教国に近づいてマムルーク朝と争いました。しかし、1295年に即位したガザン=ハンがイスラームを国教とし、モンゴル人の支配者もイスラーム世界の一員となっていきます。
14世紀後半には、トルコ化しイスラーム化したモンゴル系の家に生まれたティムールが、1370年にサマルカンドを都としてティムール朝を建てました。ティムールは各地の職人や学者を都に集め、1402年にはアンカラの戦いでオスマン帝国を破っています。ティムール朝は16世紀の初めにウズベクに滅ぼされますが、その子孫のバーブルが、のちにインドでムガル帝国を開きます。
周辺への広がり:イベリア半島・アフリカ・インド・東南アジア
イスラームは周辺の地域にも広がりました。神との一体化をめざす神秘主義(スーフィズム)は12世紀ころから教団をつくり、民衆の間に広まりました。交易で栄えた港町の王国がイスラームを受け入れた例もあります。各地域の詳しい歴史は地域別の縦断史に譲り、ここでは表で見ておきます。
| 地域 | 主な王朝・国 | 押さえる点 |
|---|---|---|
| イベリア半島 | 後ウマイヤ朝、ムラービト朝・ムワッヒド朝、ナスル朝 | 北アフリカのベルベル人の王朝も進出。最後のナスル朝は都グラナダにアルハンブラ宮殿を建てたが、1492年にグラナダが陥落 |
| 西アフリカ | ムラービト朝、マリ王国 | ムラービト朝が1076年ごろガーナ王国を攻撃。マリ王国のマンサ=ムーサは1324年からメッカに巡礼 |
| インド | ガズナ朝・ゴール朝、デリー=スルタン朝、ムガル帝国 | 1206年、ゴール朝の奴隷出身の武将アイバクが奴隷王朝を開く。以後デリーを都とする5つの王朝が続く |
| 東南アジア | マラッカ王国 | 15世紀にイスラームを受け入れ、交易の中心として東南アジアのイスラーム化に大きな影響を与えた |
インドのデリー=スルタン朝は、奴隷王朝・ハルジー朝・トゥグルク朝・サイイド朝・ロディー朝の5つの王朝の総称です。最後のロディー朝だけがアフガン系で、ほかの4つはトルコ系でした。1526年、ロディー朝がパーニーパットの戦いでバーブルに敗れ、ムガル帝国の時代に移ります。
3つの帝国:オスマン帝国・サファヴィー朝・ムガル帝国
16世紀には、スンナ派のオスマン帝国、シーア派のサファヴィー朝、インドのムガル帝国という3つの大帝国が並び立ちました。
オスマン帝国は、1299年ころにオスマン1世がアナトリア北西部で建てた国から始まりました。1453年にはメフメト2世がコンスタンティノープルを攻め落としてビザンツ帝国を滅ぼし、イスタンブルと改めて都としました。1517年にはセリム1世がマムルーク朝を滅ぼし、メッカとメディナの保護者となります。最盛期のスレイマン1世は1529年にウィーンを包囲し、1538年のプレヴェザの海戦で地中海の制海権を握りました。1571年のレパントの海戦ではスペインなどの連合艦隊に敗れましたが、東地中海での優位はその後も保たれました。


オスマン帝国は、キリスト教徒の少年を集めてイスラームに改宗させ、訓練して官僚や軍人に育てるデヴシルメという制度を持っていました。こうして編成されたスルタン直属の常備歩兵軍団がイェニチェリです。また、ギリシア正教徒・アルメニア教会の信徒・ユダヤ教徒などの非ムスリムには、宗教ごとの共同体(ミッレト)をつくらせ、納税と引きかえに自治を認めました。
イランでは、神秘主義教団の長であったイスマーイール1世が1501年にタブリーズで即位し、サファヴィー朝を開きました。サファヴィー朝はシーア派の十二イマーム派を国教とし、君主はシャーを名のりました。スンナ派のオスマン帝国とは対立し、1514年にはチャルディラーンの戦いでセリム1世に敗れています。最盛期のアッバース1世が16世紀末に都としたイスファハーンは、「世界の半分」とたたえられるほど栄えました。
インドのムガル帝国では、第3代のアクバルが、ヒンドゥー教徒の有力者を味方につけ、非ムスリムにかかるジズヤを廃止して融和を図りました。第5代のシャー=ジャハーンは、亡き妃のためにアグラにタージ=マハルを建てています。第6代のアウラングゼーブは領土を最大にしましたが、厳格なスンナ派の立場からジズヤを復活させたため、ヒンドゥー教徒やシク教徒などの反発を招き、帝国が衰える原因をつくりました。


| 項目 | オスマン帝国 | サファヴィー朝 | ムガル帝国 |
|---|---|---|---|
| 成立 | 1299年ころ | 1501年 | 1526年 |
| 主な都 | イスタンブル | タブリーズ、のちイスファハーン | デリー・アグラ |
| 宗派 | スンナ派 | シーア派(十二イマーム派)を国教 | 皇帝はスンナ派 |
| 代表的な君主 | スレイマン1世 | アッバース1世 | アクバル、アウラングゼーブ |
| 統治の特徴 | ミッレトに自治を認める | 君主はシャーを名のる | ジズヤの廃止と復活 |
比べて覚える
イスラーム史で最も混同しやすいのが、ウマイヤ朝とアッバース朝の違いです。「だれが税を納めたか」「だれが要職についたか」の2点で並べると、アラブ帝国からイスラーム帝国への変化がはっきりします。
| 項目 | ウマイヤ朝(アラブ帝国) | アッバース朝(イスラーム帝国) |
|---|---|---|
| 成立と都 | 661年、ダマスクス | 750年、のちバグダード |
| ジズヤ(人頭税) | 改宗した非アラブ人(マワーリー)も負担 | ムスリムは負担しない(非ムスリムだけ) |
| ハラージュ(地租) | 非アラブ人が負担し、アラブ人は事実上免除 | 土地を持つ者はアラブ人でも負担 |
| 要職 | アラブ人が独占 | 改宗したイラン人なども登用 |
| 主な対外戦争 | トゥール・ポワティエ間の戦い(732年) | タラス河畔の戦い(751年) |
もう一つ大切なのが、カリフとスルタンの違いです。10世紀以降、実際の政治は大アミールやスルタンが担うようになりました。


| 項目 | カリフ | スルタン |
|---|---|---|
| もとの意味 | (神の使徒の)代理人・後継者 | 権力・権力者 |
| 役割 | イスラーム共同体の指導者。10世紀以降は宗教上の権威が中心 | カリフから任された政治・軍事の支配者 |
| 代表例 | 正統カリフ、ウマイヤ朝・アッバース朝の君主 | セルジューク朝のトゥグリル=ベク、マムルーク朝のバイバルス |
入試で狙われるポイント
正誤問題では、王朝と都、王朝と宗派、出来事と王朝の組み合わせをずらした選択肢がよく出されます。左の列のような文を見たら、どこがずれているかを右の列で確かめ、正しい組み合わせを言えるようにしておきましょう。
| 誤りやすい記述 | 正しい内容 |
|---|---|
| ヒジュラは、ムハンマドがメッカを征服したことを指す | 622年のメディナへの移住。メッカの征服は630年 |
| ウマイヤ朝は都をバグダードに置いた | ウマイヤ朝の都はダマスクス。バグダードはアッバース朝の都 |
| ウマイヤ朝では、改宗すればジズヤが免除された | 改宗した非アラブ人も免除されなかった。免除はアッバース朝から |
| タラス河畔の戦いでウマイヤ朝が唐を破った | 751年、アッバース朝が唐を破った。732年のトゥール・ポワティエ間の戦いはウマイヤ朝 |
| ファーティマ朝はスンナ派の王朝である | シーア派(イスマーイール派)の王朝で、カイロを建設した |
| ブワイフ朝のトゥグリル=ベクがスルタンの称号を受けた | セルジューク朝のトゥグリル=ベク。ブワイフ朝は大アミール |
| イェルサレムを奪回したのはマムルーク朝である | アイユーブ朝のサラーフ=アッディーン(1187年) |
| サファヴィー朝はスンナ派を国教とした | シーア派(十二イマーム派)を国教とし、スンナ派のオスマン帝国と対立 |
| アクバルはジズヤを復活させた | アクバルは廃止し、アウラングゼーブが復活させた |
論述で使える要点
論述では、王朝の名前を並べるだけでなく、「なぜ支配のしくみが変わったのか」を税や民族の関係と結びつけて説明することが求められます。よく問われる2つのテーマについて、要点の例を示します。
例1「ウマイヤ朝からアッバース朝への変化」(150字程度):ウマイヤ朝ではアラブ人が特権を持ち、改宗した非アラブ人(マワーリー)もジズヤやハラージュを納めたため、不満が高まった。750年に成立したアッバース朝では、ムスリムであればジズヤを免除し、土地を持つ者はアラブ人でもハラージュを納めることとし、非アラブ人も要職に登用した。こうしてアラブ帝国はイスラーム帝国へと変わった。
例2「カリフの権威とスルタン」(130字程度):10世紀、アッバース朝の力が弱まると、ブワイフ朝がバグダードに入って大アミールとして実権を握った。続いてセルジューク朝のトゥグリル=ベクは、1055年にバグダードに入り、カリフからスルタンの称号を受けた。カリフは宗教上の権威にとどまり、政治はスルタンが担う形になった。
| テーマ | 入れるべき用語 |
|---|---|
| イスラームの成立 | ムハンマド、メッカ、ヒジュラ、メディナ、ウンマ、クルアーン |
| アラブ帝国からイスラーム帝国へ | ウマイヤ朝、マワーリー、ジズヤ、ハラージュ、アッバース朝、バグダード |
| カリフとスルタン | 3カリフの並立、ブワイフ朝、大アミール、イクター制、セルジューク朝、トゥグリル=ベク |
| 3つの帝国と宗派 | オスマン帝国、ミッレト、サファヴィー朝、十二イマーム派、ムガル帝国、アクバル、アウラングゼーブ |
確認問題
イスラーム史に出てきた用語を、一問一答で確かめましょう。答えはすべて本文に出てきた語句です。まず答えを隠したまま解き、あやふやだった問題には印を付けて、あとで該当する節を読み返してください。
- 1622年、ムハンマドが信者とともにメッカからメディナへ移ったことを何という?イスラーム暦の元年
- 2ムハンマドがメディナでつくった、血縁をこえた信者の共同体を何という?血縁や部族をこえて信者が結びついた
- 3「代理人・後継者」を意味する、ムハンマドの死後の指導者の称号は?最初に名のったのはアブー=バクル
- 4アリーとその子孫だけを正しい指導者とする宗派は?名前は「アリーの党派」に由来する
- 5661年にダマスクスを都としてウマイヤ朝を開いた人物は?カリフの位は世襲になった
- 6ウマイヤ朝で、イスラームに改宗した非アラブ人を何と呼んだ?改宗しても租税の免除は認められなかった
- 7アッバース朝の第2代カリフで、バグダードを建設したのは?762年に建設が始まった
- 8909年に北アフリカで成立し、のちにカイロを建設したシーア派の王朝は?アッバース朝に対抗してカリフを名のった
- 9946年にバグダードに入り、大アミールとして実権を握ったイラン系の王朝は?イクター制を始めた
- 101055年にバグダードに入り、カリフからスルタンの称号を受けたセルジューク朝の君主は?セルジューク朝はスンナ派
- 111187年に十字軍からイェルサレムを奪回したアイユーブ朝の創始者は?サラディンとも呼ばれる
- 121258年にバグダードを攻略してアッバース朝を滅ぼしたモンゴルの指揮官は?イランを中心にイル=ハン国を建てた
- 131453年にコンスタンティノープルを攻略したオスマン帝国のスルタンは?都をイスタンブルと改めた
- 14オスマン帝国で、キリスト教徒の少年を改宗させて育てた兵士からなるスルタン直属の歩兵軍団は?集める制度をデヴシルメという
- 15シーア派の十二イマーム派を国教とした、1501年成立のイランの王朝は?君主はシャーを名のった
数日あけてから、もう一度この一覧に戻ってきてください。
ほかの時代の用語も確かめたいときは、世界史一問一答で地域や時代を混ぜて解いてみてください。
世界史 イスラーム史の内容をまとめて復習できる解説つきの問題集(PDF・全19問)を用意しました。下のファイルをダウンロードして、印刷して使ってください。
テーマ史の勉強の進め方
世界史の通史では、イスラーム世界の話がいくつもの章に分かれて登場するため、ウマイヤ朝と後ウマイヤ朝のように似た名前の王朝がばらばらの知識になりがちです。通史を終えた段階で王朝を一本の流れに並べ直すと、「宗教の権威と政治の実権がどう分かれていったか」という筋が見えてきます。
| 段階 | やること | 目安 |
|---|---|---|
| 1 | 通史で、西アジア・北アフリカの王朝を一度学ぶ | イスラーム世界の章が一周したあと |
| 2 | 年表を見ながら、王朝・都・宗派の組み合わせを声に出して確認する | 1回10〜15分 |
| 3 | ウマイヤ朝とアッバース朝の比較表を隠し、白紙に再現する | 書けなかった欄に印をつける |
| 4 | 論述の要点を見ずに、150字で因果をまとめてみる | 数日おいて繰り返す |
通史とテーマ史をどの順番で進めればいいか、独学で間に合うかの判定方法は、世界史は独学で間に合う?で詳しく解説しています。論述の添削を頼める家庭教師やオンライン塾の選び方もまとめています。
関連するテーマ史・時代別の記事
イスラーム世界の歴史は、キリスト教世界や、アジア・アフリカの各地域の歴史と深く結びついています。あわせて読みたい記事を紹介します。
| 記事 | この記事とのつながり |
|---|---|
| 世界史のテーマ史:キリスト教史 | 十字軍の各回の流れと、イベリア半島の国土回復運動が分かる |
| 世界史のテーマ史:東西交流史 | ムスリム商人の交易と、東西を結ぶ道が分かる |
| 世界史のテーマ史:アジアの宗教・思想史 | インドでのヒンドゥー教との関わりが分かる |
| 世界史のテーマ史:地域別の縦断史(東アジア周辺・内陸アジア編) | 東南アジアや内陸アジアの流れとあわせて整理できる |
| 世界史のテーマ史:地域別の縦断史(アフリカ・ラテンアメリカ編) | アフリカへのイスラームの広がりが分かる |
| 世界史のテーマ史:科学技術史 | イスラーム世界の学問とヨーロッパへの伝わりが分かる |
| イスラーム世界 | 時代別の記事 |
| インド史 | 時代別の記事 |
| ヨーロッパ史(1) | 時代別の記事 |
ほかのテーマも、世界史のテーマ史の一覧でまとめて確認できます。
まとめ
イスラーム世界は、ムハンマドのもとで生まれた信者の共同体から出発し、アラブ人が支配するウマイヤ朝、ムスリムの平等をめざしたアッバース朝へと移りました。10世紀以降はカリフの政治的な力が弱まり、大アミールやスルタンが実権を握る時代を経て、16世紀には3つの大帝国が並び立ちました。
| 段階 | 中心となる王朝 | 変化のきっかけ |
|---|---|---|
| カリフが統一して支配 | 正統カリフ、ウマイヤ朝、アッバース朝 | 非アラブ人の不満がアッバース朝の成立を支えた |
| カリフの並立と実権の移動 | 後ウマイヤ朝・ファーティマ朝、ブワイフ朝、セルジューク朝 | 財政の行きづまりでカリフの力が弱まり、大アミールやスルタンが実権を握った |
| 3つの帝国 | オスマン帝国、サファヴィー朝、ムガル帝国 | 1258年にアッバース朝が滅んだあと、新しい王朝が各地で力をのばした |
まず年表の「ポイント」の列で流れをつかみ、次に比較の表でウマイヤ朝とアッバース朝、カリフとスルタンの違いを確かめ、最後に論述の要点を自分の言葉で書いてみてください。









コメント/Comment