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Mino
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日本史 土地制度史の流れ|班田収授から農地改革まで横断整理

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日本史 土地制度史の流れ|班田収授から農地改革まで横断整理

土地制度史は、日本史のテーマ史の中でも入試でよく問われる分野です。古代の班田収授法から戦後の農地改革まで、1,300年以上にわたって「土地をだれが持ち、だれが税を納めるのか」という問いが形を変えながら続いてきました。

入試では、ある時代の制度を単独で問うだけでなく、「前の制度のどこに限界があり、次の制度が生まれたのか」という流れが問われます。たとえば、三世一身法と墾田永年私財法の順序や、太閤検地と地租改正で税を納める人がどう変わったかは、正誤問題でも論述問題でも定番の論点です。

この記事では、時代ごとの制度を年表でつかんだうえで、因果関係と比較のポイントを表で整理します。通史をひととおり学んだあとの復習として使ってください。

この記事で分かること該当する節
古代から戦後までの土地制度の流れまず全体像
各制度が生まれた理由と、次の時代への影響時代ごとに詳しく見る
似た制度の違い(三世一身法と墾田永年私財法など)比べて覚える
正誤問題でまちがえやすい組み合わせ入試で狙われるポイント
論述で使える要点と用語論述で使える要点

このテーマの内容をまとめた確認問題プリントもあるので、最後までゆっくりご覧ください!

目次(見たいところをクリックできます!)

まず全体像:土地制度の流れを一枚でつかむ

日本の土地制度は、大きく4つの段階に分けると整理しやすくなります。

国家が土地と人を直接つかむ律令制の段階、荘園と公領が並び立つ段階、太閤検地で村と百姓を単位にした石高制の段階、そして近代の土地私有と地租の段階です。

下の年表では、各段階の転換点になった出来事を中心に並べています。まずは「ポイント」の列だけを読み、流れを頭に入れてください。

時代年号できごとポイント
飛鳥646年改新の詔公地公民の方針を示す
飛鳥701年大宝律令班田収授法が制度として整う
奈良722年百万町歩開墾計画大規模な開墾をめざす
奈良723年三世一身法期限つきで開墾地の保有を認める
奈良743年墾田永年私財法開墾地の永久の私有を認める
平安902年延喜の荘園整理令最初の荘園整理令
平安1069年延久の荘園整理令記録荘園券契所で証拠書類を審査
鎌倉1185年守護・地頭の設置荘園・公領に武士が入りこむ
鎌倉1223年新補率法承久の乱後の地頭の取り分を定める
室町1352年半済令年貢の半分を守護を通じて武士に与える
安土桃山1582年太閤検地が始まる一地一作人・石高制で荘園制が解体
江戸1643年田畑永代売買禁止令本百姓の没落を防ぐ
江戸1673年分地制限令田畑の細分化を防ぐ
明治1873年地租改正条例地価の3%を土地所有者が金納
明治1877年地租を2.5%に引き下げ地租改正反対一揆への対応
昭和1946年自作農創設特別措置法第二次農地改革で寄生地主制を解体
昭和1952年農地法農地改革の成果を固定

時代ごとに詳しく見る

ここからは、時代ごとに制度の中身と、その制度が生まれた理由、次の時代に何を残したかを見ていきます。各時代の最後に「つながり」を意識して読むと、年号の暗記に頼らずに流れを説明できるようになります。

古代:公地公民と班田収授法

646年の改新の詔では、豪族が私的に支配していた土地(田荘など)と人民(部曲など)を廃止する方針が示されました。これが、いわゆる公地公民の方針です。ただし、『日本書紀』に載る詔の文章には編者が手を加えた部分があるとされ、どこまでがこの時点の内容かについては諸説あります。

公地公民の考え方を具体的な制度にしたのが、律令に定められた班田収授法です。戸籍にもとづいて人々に口分田を分け与え、その人が死ぬと国に返させるしくみで、701年の大宝律令によって制度として整いました。

項目班田収授法の内容
もとになる台帳6年ごとに作る戸籍
対象6歳以上の男女
支給額男子に2段、女子にはその3分の2。私奴婢は良民の男女それぞれの3分の1
返還死亡すると国に返す(収公)
売買口分田の売買や相続は禁止

なお、当時の1段は360歩でした。のちに太閤検地で1段は300歩に改められるので、面積の単位を混同しないように注意しましょう。

この制度は、口分田を与える代わりに租・庸・調などの税や兵役を課すという、税制や兵制と一体のしくみでした。そのため、班田収授がうまくいかなくなると、国家の財政そのものが揺らぐことになります。

奈良時代:開墾の奨励と三世一身法・墾田永年私財法

8世紀に入ると、人口の増加に対して口分田が足りなくなりました。調や庸などの重い負担からのがれるため、戸籍に登録された本籍地を離れて浮浪・逃亡する農民も増えました。そこで政府は、新しい田を開かせる方針に切りかえます。

722年には百万町歩開墾計画が立てられ、翌723年には三世一身法が出されました。三世一身法は、新たに用水路などを作って開墾した場合は3世代、もとからある用水路を使って開墾した場合は本人1代に限って、その土地の保有を認める法です。なお、「三世」がだれまでを指すかについては諸説あります。

しかし、期限が近づくと土地を返さなければならないため、開墾した田を手入れしなくなる人が出ました。この限界をふまえて743年に出されたのが墾田永年私財法で、開墾した土地の永久の私有を認めました。ただし、一品・一位の500町から、位のない庶民の10町まで、位階などに応じて持てる面積には上限がありました。開墾するには国司に申請して許可を受ける必要があり、許可から3年以内に開墾しなければ権利を失いました。

年政策ねらい・結果
722年百万町歩開墾計画田地を増やすため、開墾を大規模に進めようとした
723年三世一身法期限つきで開墾地の保有を認め、開墾をうながした
743年墾田永年私財法開墾地の永久の私有を認めた。面積には上限あり
765年寺院と現地の農民の小規模な開墾を除いて、新たな開墾を禁止道鏡が政権をにぎっていた時期の政策
772年開墾の禁止を解く再び開墾が認められた

墾田永年私財法によって、貴族や大寺院は周辺の農民や浮浪人を使って大規模な開墾を進めました。こうして生まれた私有地が初期荘園です。国家がすべての土地を管理するという公地公民の原則は、ここで大きく崩れはじめました。

平安時代:荘園の広がりと荘園整理令

浮浪や逃亡はその後も続き、全国一斉の班田は9世紀初めには行えなくなりました。902年の班田が、記録に残る最後のまとまった班田とされます。

10世紀初めごろ、政府は戸籍・計帳で人を単位に税を取る方法をあきらめ、田地を単位に税を取る方法へ切りかえました。任国に赴任した国司の最上席の者を受領といい、受領は有力な農民である田堵に田地の耕作と納税を請け負わせました。

一方、地方で土地を開発した開発領主たちは、国司の干渉をのがれるため、中央の貴族や大寺社に土地を寄進し、自分は預所や下司などの荘官として現地の支配を続けました。寄進を受けた貴族・寺社は領家、さらに上位の寄進先は本家と呼ばれます。このように寄進によって成立した荘園は、寄進地系荘園と呼ばれてきました。

なお、近年の研究をふまえて、「立荘」や「領域型荘園」という言葉を使って荘園の成り立ちを説明する教科書も増えています。

用語意味
不輸の権国に税(租)を納めなくてよい権利
不入の権国司が派遣する使者(検田使など)の立ち入りを拒む権利
官省符荘太政官や民部省の文書で不輸が認められた荘園
国免荘国司の判断で不輸が認められた荘園
領家・本家寄進を受けた貴族・寺社と、そのさらに上位の寄進先

荘園が増えると、国の税収が減ります。そこで政府は荘園整理令を出して、根拠のあいまいな荘園を停止しようとしました。902年の延喜の荘園整理令が最初の荘園整理令です。

とくに重要なのが、1069年に後三条天皇が出した延久の荘園整理令です。記録荘園券契所を設けて荘園の証拠書類を審査し、1045年以後に新しく立てられた荘園や、証拠のはっきりしない荘園を停止しました。摂関家の荘園も例外とせず、一定の成果をあげました。
この整理によって、荘園と、国司が支配する公領(国衙領)との区別がはっきりしました。

項目延喜の荘園整理令延久の荘園整理令
年902年1069年
天皇醍醐天皇後三条天皇
特徴最初の荘園整理令記録荘園券契所で証拠書類を審査
主な内容897年以後の勅旨田の廃止、院宮王臣家による山野の占有の禁止など1045年以後に新しく立てられた荘園や、証拠書類が不十分な荘園を停止
結果あまり効果がなかった摂関家の荘園も対象とし、一定の成果をあげた

鎌倉時代:地頭の設置と荘園領主との争い

1185年、源頼朝は朝廷から守護・地頭を置く権利を認められました。地頭は荘園や公領に置かれ、年貢の徴収や土地の管理、治安の維持にあたりました。これによって、荘園の中に幕府の御家人が入りこむ形になります。

1221年の承久の乱で幕府が勝つと、朝廷方の貴族や武士から取り上げた土地に新たな地頭が置かれました。これを新補地頭といい、取り分がはっきりしない場合に備えて1223年に新補率法が定められました。

鎌倉時代の中ごろになると、地頭が荘園領主に送るべき年貢を納めずに押さえこむなどして、荘園領主との争いが増えました。争いを解決する方法として広まったのが、地頭請と下地中分です。

方法内容結果
地頭請豊作・凶作にかかわらず一定額の年貢を納めることを条件に、荘園の管理を地頭にまかせる地頭の現地支配が強まる
下地中分荘園の土地(下地)そのものを、荘園領主の分と地頭の分に分けるそれぞれが自分の分を支配し、たがいに干渉しない

どちらの方法でも、荘園に対する地頭の支配は強まり、現地を実際に支配する力はしだいに地頭の側に移っていきました。ただし、下地中分では荘園領主が支配する部分も残りました。

室町〜戦国時代:半済令と荘園の解体

南北朝の動乱のなかで、足利尊氏は1352年に半済令を出しました。近江・美濃・尾張の3国で、荘園の年貢の半分を兵粮料所(軍費をまかなう所領)として、守護を通じて武士に与えることを認めたものです。最初はその年1年に限られていましたが、1368年の応安の半済令では、皇室や摂関家、寺社の所領などを除いて、諸国の荘園の土地そのものを半分に分けて武士に預けることが認められ、長く続くものになりました。

さらに室町時代には、荘園領主が守護に荘園の管理をまかせ、一定額の年貢を請け負わせる守護請も広がりました。守護は、半済や守護請で得た土地や収益を配下の武士に分け与えて主従関係を結び、任国を自分の領国のように支配する守護大名へと成長しました。

戦国時代になると、戦国大名は自分の領国の土地と人を直接つかもうとしました。家臣の領地から得られる年貢などの収益を銭に換算した貫高で表し、それに見合った軍役を課す貫高制を取る大名もいました。

安土桃山時代:太閤検地と石高制

豊臣秀吉は、山崎の戦いで明智光秀を破った直後の1582年に山城国で検地を行い、以後、全国の田畑を統一した基準で調べる太閤検地を進めました。面積の単位をそろえて1段を300歩とし、升を京枡に統一して、田畑の等級ごとに米の生産量(石高)を定めました。

太閤検地の要点内容
基準の統一1段を300歩とし、升を京枡に統一した
石高制土地の価値を米の量(石高)で表し、年貢や軍役の基準にした
一地一作人1つの土地に1人の耕作者を検地帳に登録し、その人を年貢を納める者とした。間に入って取り分を得る者は否定された
村の把握村ごとに検地を行って検地帳を作り、年貢は村を単位に割り当てて村の責任で納めさせた(村請制)

一地一作人の原則によって、1つの土地に何重にも権利が重なっていた荘園のしくみは否定されました。こうして、荘園制は解体されました。こうして、大名が石高にもとづいて領地を支配し、百姓が年貢を納める近世の体制の土台ができました。

江戸時代:本百姓の維持と土地売買の制限

江戸幕府や藩の財政は、年貢を納める本百姓に支えられていました。本百姓とは、検地帳に登録されて田畑と屋敷を持ち、年貢や諸役を負担する百姓のことです。そのため幕府は、本百姓が土地を失ったり、田畑が細かく分かれすぎたりしないよう、土地の扱いを制限しました。

法令年ねらい
田畑永代売買禁止令1643年田畑の売買を禁じ、本百姓の没落を防ぐ
分地制限令1673年名主は20石以上、一般の百姓は10石以上でなければ田畑を分けて相続させることを禁じる
質流し禁令1722年質に入れた田畑が流れるのを禁じたが、混乱が起きて翌1723年に撤回

しかし、田畑の売買が禁じられていても、借金のかたに田畑を質に入れ、返せずに手放す百姓は少なくありませんでした。質入れという形を通じて実際には土地が移り、18世紀には質に取った土地を集めた地主が増えて、土地を持つ地主と、その土地を借りて耕す小作人とに分かれていきました。

明治時代:地租改正と土地の私有

明治政府は、年貢のように年ごとの収穫で増減する税では、財政が安定しないという問題をかかえていました。そこで1872年に田畑永代売買の禁止を解き、土地の所有者に地券を発行して所有権を認めました。

そのうえで、1873年に地租改正条例を出しました。課税の基準を収穫高から地価に改め、地価の3%を地租として、地券を持つ土地の所有者が現金で納めるしくみにしました。豊作・不作にかかわらず税額を増減しないと定めたので、政府は安定した収入を得られるようになりました。

項目江戸時代の年貢地租改正後の地租
課税の基準収穫高(石高)地価
納める方法主に米などの現物現金(金納)
納める人耕作者(村単位でまとめて納める)土地の所有者(地券の持ち主)
税率―地価の3%(1877年から2.5%)

ただし、政府はそれまでの年貢の収入を減らさない方針で地価や税率を決めたため、農民の負担はほとんど軽くならず、各地で地租改正反対一揆が起きました。政府は1877年に税率を2.5%に引き下げました。また、小作人が地主に納める小作料は現物のまま残り、負担も重かったため、地主と小作人の関係は近代にも持ちこされました。

大正〜戦後:寄生地主制と農地改革

1880年代の松方財政によるデフレで米などの価格が下がると、借金に苦しんで土地を失い、小作農に転落する農民が増えました。土地を集めた地主の中には、自分では耕作せず、小作料の収入で暮らす寄生地主が現れます。これが寄生地主制で、明治後期にかけて広がりました。

1920年代には、小作料の引き下げを求める小作争議が急に増え、1922年には日本農民組合が結成されました。こうした対立を受けて、政府は1938年に農地調整法を出しました。小作争議の調停や自作農の創設を目的とした法律で、小作人の権利がはじめて法律に書かれましたが、地主制そのものはなくなりませんでした。

戦後、GHQは農村の民主化の一つとして地主制の解体を求めました。1945年12月に農地調整法を改正して行われた第一次農地改革は、GHQに不十分とされました。そこで1946年10月に自作農創設特別措置法が公布され、第二次農地改革が進められました。不在地主の小作地はすべて、村に住む在村地主の小作地は保有限度(都府県は平均1町歩、北海道は4町歩)を超える分を、国が強制的に買い上げて小作人に安く売り渡しました。

項目第一次農地改革第二次農地改革
法律農地調整法の改正自作農創設特別措置法と農地調整法の再改正
時期1945年12月1946年10月の法律にもとづき、1947〜50年に実施
評価GHQに不十分とされた地主制の解体が進んだ
買い上げの対象―不在地主の小作地すべてと、在村地主の保有限度を超える小作地
小作料金納にする方針金納とした

農地改革によって多くの小作人が自作農となり、寄生地主制は解体されました。1952年には、農地改革の成果を維持するために農地法が制定されました。

比べて覚える

土地制度史では、似た制度を並べて違いを言えるようにしておくと、正誤問題で迷わなくなります。とくに「だれが税を納めるのか」「何を基準に税を決めるのか」という視点で、3つの大きな制度を比べてみましょう。

項目班田収授法太閤検地地租改正
土地と人のつかみ方戸籍で人をつかみ、口分田を与える検地帳で土地と耕作者をつかむ地券で土地の所有者をつかむ
税の基準人(口分田を受けた人)石高地価
納める人口分田を受けた人々検地帳に登録された耕作者土地の所有者
納め方稲・布・特産物などの現物と労役米などの現物現金

次に、奈良時代の2つの開墾の法を比べます。三世一身法の「期限」が問題となり、墾田永年私財法で「永久」の私有が認められたという因果関係まで説明できるようにしておきましょう。

項目三世一身法(723年)墾田永年私財法(743年)
保有の期間新しい用水路で開墾すれば3世代、もとの用水路なら本人1代永久に私有できる
面積の制限入試では問われにくい位階などに応じた上限がある
結果期限が近づくと耕作が放棄された貴族・寺院による大規模な開墾が進み、初期荘園が生まれた

入試で狙われるポイント

正誤問題では、年代の順序や、制度と人物・内容の組み合わせをずらした選択肢がよく出されます。次の表の左の列のような誤った文を見たら、すぐに右の列の正しい内容を思い出せるようにしておきましょう。

誤りやすい記述正しい内容
墾田永年私財法で、面積の制限なく開墾地の私有が認められた位階などに応じた面積の上限があった
三世一身法は墾田永年私財法のあとに出された三世一身法(723年)が先で、墾田永年私財法(743年)があと
延喜の荘園整理令で記録荘園券契所が置かれた記録荘園券契所は1069年の延久の荘園整理令で置かれた
下地中分は、地頭が年貢の納入を請け負う方法であるそれは地頭請。下地中分は土地そのものを分け合う方法
半済令は最初から全国を対象に出された最初は近江・美濃・尾張の3国に1年限りで出され、1368年の応安の半済令で広がった
太閤検地では、1つの土地に複数の権利者を登録した一地一作人の原則で、1つの土地に1人の耕作者を登録した
地租改正で、耕作者が収穫高に応じて米で納めることになった土地の所有者が、地価の3%を現金で納めることになった
第一次農地改革で寄生地主制が解体されたGHQに不十分とされ、自作農創設特別措置法による第二次農地改革で解体が進んだ

順序の問題では、「班田収授法→三世一身法→墾田永年私財法→荘園整理令→地頭→半済令→太閤検地→田畑永代売買禁止令→地租改正→農地改革」という大きな流れを、声に出して言えるようにしておくと効果的です。

論述で使える要点

論述では、制度の名前を並べるだけでなく、「なぜその制度が必要になったのか」と「その結果どうなったのか」を1つの文章にまとめる力が問われます。ここでは、よく問われる2つのテーマについて、要点の例を示します。

例1「墾田永年私財法が出された背景と影響」(150字程度):人口の増加で口分田が不足し、政府は三世一身法で開墾をうながしたが、期限が近づくと耕作が放棄された。そこで墾田永年私財法で開墾地の永久の私有を認めた。その結果、貴族や大寺院が大規模な開墾を進めて初期荘園が生まれ、公地公民の原則は崩れていった。

例2「地租改正の内容と意義」(120字程度):地租改正は、課税の基準を収穫高から地価に改め、土地の所有者に地価の3%を現金で納めさせた。これにより政府は、豊作・不作に左右されない安定した財政収入を得た。一方、負担が重く反対一揆が起き、税率は2.5%に引き下げられた。

テーマ入れるべき用語
律令制の土地制度の崩れ口分田の不足、浮浪・逃亡、三世一身法、墾田永年私財法、初期荘園
荘園の発達開発領主、寄進、領家・本家、不輸・不入の権、荘園整理令
荘園制の解体地頭請、下地中分、半済令、守護大名、太閤検地、一地一作人
近代の土地制度地券、地租改正、地価の3%、金納、寄生地主制、農地改革

確認問題

ここまでの内容を、一問一答で確かめましょう。答えはすべてこの記事の中に出てきた用語です。答えを隠して、声に出して答えてから確認してください。

土地制度史 確認問題全15問
○ 0△ 0× 0残り 15
  1. 1701年に制度として整い、6歳以上の男女に口分田を与えたしくみは?
  2. 2戸籍にもとづいて口分田を与え、死後に返させた723年に出された、開墾した土地の保有を期限つきで認めた法は?
  3. 3新しい用水路で開墾すれば3世代、もとの用水路なら本人1代743年に出された、開墾した土地の永久の私有を認めた法は?
  4. 4位階などに応じた面積の上限があった墾田永年私財法のあと、貴族や大寺院が開墾によって作った私有地を何という?
  5. 5周辺の農民や浮浪人を使って開墾した国司が派遣する使者の立ち入りを拒む荘園の権利は?
  6. 6税を納めなくてよい権利は不輸の権1069年の荘園整理令を出した天皇は?
  7. 7摂関家の荘園も例外としなかった延久の荘園整理令で、荘園の証拠書類を審査するために置かれた役所は?
  8. 8基準に合わない荘園を停止した承久の乱のあと、没収した土地に新たに置かれた地頭を何という?
  9. 9取り分は1223年の新補率法で定めた荘園の土地そのものを荘園領主と地頭で分け合う解決方法は?
  10. 10年貢の納入を請け負う方法は地頭請1352年に出され、年貢の半分を軍費として守護を通じて武士に与えることを認めた法令は?
  11. 11最初は近江・美濃・尾張の3国に1年限り太閤検地で、1つの土地に1人の耕作者を登録した原則は?
  12. 12荘園の重なった権利を否定した太閤検地で統一された升の名前は?
  13. 13石高を定める基準をそろえた1643年に江戸幕府が出した、田畑の売買を禁じた法令は?
  14. 14本百姓の没落を防ぐねらい1873年に出され、地価の3%を土地所有者に現金で納めさせた法令は?
  15. 151877年に税率は2.5%に引き下げられた1946年に出され、第二次農地改革の中心となった法律は?
    不在地主の小作地はすべて国が買い上げた
1 / 15
全15問おつかれさまでした×を付けた問題だけをもう一度解くと、記憶が定着しやすくなります。
数日あけてから、もう一度この一覧に戻ってきてください。
スペースキーで答えを表示/←→で移動

ほかの時代の用語も確かめたいときは、日本史一問一答で地域や時代を混ぜて解いてみてください。

確認問題・復習プリント

ここまでをまとめた確認問題です。一問一答のみならず、正誤問題、選択問題、論述問題があるので復習教材としてご活用ください。

テーマ史の勉強の進め方

テーマ史は、通史をひととおり学んだあとに取り組むと効果が大きくなります。通史では時代ごとに政治・経済・文化を順に学ぶため、土地制度の話は時代ごとにばらばらに出てきます。テーマ史でそれを1本の線につなぎ直すと、「前の制度の限界が次の制度を生んだ」という因果が見えるようになります。

段階やること目安
1通史の教科書や参考書で、各時代の土地制度を一度学ぶ通史が一周したあと
2この記事の年表を見ながら、流れを自分の言葉で説明する1回15分ほど
3比較の表を隠して、違いを書き出してみるまちがえた所に印をつける
4確認問題と論述の要点で、用語と因果を確かめる数日おいて繰り返す

土地制度史は税制史と重なる部分が多いので、税制史とあわせて読むと理解が深まります。入試の直前期には、テーマ史の年表だけを見返して、流れをすばやく思い出す使い方もおすすめです。

通史とテーマ史をどの順番で進めればいいか、独学で間に合うかの判定方法は、日本史は独学で間に合う?で詳しく解説しています。論述の添削を頼める家庭教師やオンライン塾の選び方もまとめています。

関連するテーマ史

土地制度は、税の取り方や農業の発達、法のしくみと深く結びついています。あわせて読むと理解が深まるテーマ史を紹介します。

テーマ史土地制度史とのつながり
日本史のテーマ史:税制史租・庸・調、年貢、地租は土地制度と一体で変わってきた
日本史のテーマ史:農業・産業史農業技術の発達や寄生地主制の背景が分かる
日本史のテーマ史:法制史律令や武家の法の中で、土地がどう扱われたかが分かる
日本史のテーマ史:貨幣・金融史地租の金納と近代の貨幣制度のつながりが分かる

まとめ

日本の土地制度は、国家が土地と人を直接つかむ律令制から始まり、荘園の発達、武士による現地支配、太閤検地による整理、近代の土地私有と地租、そして戦後の農地改革へと移り変わってきました。どの段階でも、前の制度の限界が次の制度を生んでいます。

段階中心となる制度次の段階へ移った理由
律令制班田収授法口分田の不足と開墾の奨励で私有地が生まれた
荘園公領制荘園と公領、地頭地頭・守護が現地支配を強め、荘園領主の支配が弱まった
石高制太閤検地、本百姓財政の安定のため、近代的な税制が必要になった
近代的土地所有地租改正、寄生地主制戦後の民主化で地主制の解体が求められた
戦後農地改革、農地法自作農が中心の農村へ変わった

まずは年表の「ポイント」の列を覚え、次に比較の表で違いを確かめ、最後に論述の要点を自分の言葉で書いてみてください。流れを説明できるようになれば、土地制度史はテーマ史の中でも得点源になります。

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