女性史は、日本史のテーマ史の中でも、政治・法・家族・教育・労働といった複数の分野にまたがる分野です。古代の女王や女性天皇から、戦後の女性参政権と民法の改正まで、「女性が社会の中でどのような立場に置かれ、それがなぜ変わったのか」という視点で、時代をこえて問われます。
入試では、人物と出来事の組み合わせだけでなく、変化の理由を問う問題がよく見られます。たとえば、鎌倉時代には所領を相続していた女性が、のちに相続から外れていった理由や、治安警察法第5条がどの部分から改正されたのかといった順序は、正誤問題でも論述問題でもねらわれやすい論点です。
この記事では、女性の地位の移り変わりを年表でつかみ、因果と比較のポイントを表で整理します。

最後にこの記事の内容をまとめた確認プリントもあります!最後まで読み、プリントで復習してこの範囲を完璧にしましょう!
| この記事で分かること | 該当する節 |
|---|---|
| 古代から戦後までの女性の地位の流れ | まず全体像 |
| 相続・婚姻・法律が変わった理由と、その影響 | 時代ごとに詳しく見る |
| 青鞜社・新婦人協会・赤瀾会の違いなど | 比べて覚える |
| 正誤問題で取りちがえやすい年代と組み合わせ | 入試で狙われるポイント |
| 論述で使える要点と用語 | 論述で使える要点 |
まず全体像:女性の地位の移り変わりを一枚でつかむ
日本の女性史は、大きく4つの段階で整理すると見通しがよくなります。女性の王や天皇が現れ、女性も所領を相続した古代・中世前期、家を単位とする相続が広がって女性の権利が狭まった中世後期・近世、近代国家のもとで教育の機会が開かれる一方で政治活動や家の中での立場が制限された近代、そして法の上での男女平等が定められた戦後です。
下の年表では、各段階の転換点になった出来事を並べました。最初は「ポイント」の列だけを追ってください。


| 時代 | 年号 | できごと | ポイント |
|---|---|---|---|
| 弥生 | 239年 | 卑弥呼が魏に使いを送る | 親魏倭王の称号を受ける |
| 飛鳥 | 592年 | 推古天皇が即位 | 確実な記録が残る最初の女性天皇 |
| 飛鳥 | 690年 | 持統天皇が即位 | 律令にもとづく政治を進める |
| 鎌倉 | 1221年 | 承久の乱 | 北条政子が御家人をまとめる |
| 鎌倉 | 1232年 | 御成敗式目 | 女子に譲った所領についての規定もある |
| 江戸 | 1629年 | 明正天皇が位を継ぐ | 奈良時代の称徳天皇以来の女性天皇 |
| 明治 | 1871年 | 津田梅子らがアメリカへ留学 | 日本最初の女子留学生 |
| 明治 | 1890年 | 集会及政社法 | 女性の政談集会・政治結社への参加を禁止 |
| 明治 | 1898年 | 明治民法の施行 | 戸主権と家督相続による家制度 |
| 明治 | 1900年 | 治安警察法・女子英学塾 | 第5条で女性の政治活動を禁止/津田梅子が塾を開く |
| 明治 | 1911年 | 青鞜社の結成 | 雑誌『青鞜』を創刊 |
| 大正 | 1920年 | 新婦人協会の結成 | 治安警察法第5条の改正を求める |
| 大正 | 1922年 | 治安警察法第5条の改正 | 政談集会への参加だけが認められる |
| 大正 | 1924年 | 婦人参政権獲得期成同盟会 | 翌年、婦選獲得同盟と改称 |
| 昭和 | 1945年 | 衆議院議員選挙法の改正 | 満20歳以上の男女に選挙権 |
| 昭和 | 1946年 | 戦後初の総選挙・日本国憲法の公布 | 女性議員39人が当選/両性の平等 |
| 昭和 | 1947年 | 民法の改正 | 戸主権と家督相続を廃止 |
| 昭和 | 1985年 | 男女雇用機会均等法・女子差別撤廃条約の批准 | 雇用の分野での男女の均等をめざす |
| 平成 | 1999年 | 男女共同参画社会基本法 | 男女共同参画社会の基本理念を定める |
時代ごとに詳しく見る
ここからは時代を追って、女性の立場がなぜ、どう変わったのかを確かめます。相続・婚姻・法律という3つの視点を意識して読んでください。
古代:女王・女性天皇と律令の中の女性
中国の歴史書『魏志』倭人伝によると、2世紀後半に倭で大きな争いが起きたとき、諸国は邪馬台国の卑弥呼を女王として共に立て、争いはおさまりました。卑弥呼は鬼道(呪術)によって人々を従え、夫を持たず、弟が政治を助けたと記されています。239年には魏に使いを送り、親魏倭王の称号と金印を授かりました。
卑弥呼の死後に男の王が立つと、国中が従わずに再び争いとなりました。そこで卑弥呼の一族の13歳の娘である壱与(台与とも書く)を王に立てると、ようやく国がおさまったといいます。
6世紀末から8世紀にかけては、女性の天皇があいついで即位しました。江戸時代の後桜町天皇までに8人の女性天皇が10代にわたって位につき、そのうち6人・8代がこの時期に集中しています。皇極天皇は斉明天皇として、孝謙天皇は称徳天皇として、一度退いたのち再び位につきました(重祚)。
| 天皇 | 在位 | その時代の主な出来事 |
|---|---|---|
| 推古天皇 | 592〜628年 | 聖徳太子のもとで冠位十二階・憲法十七条 |
| 皇極天皇(重祚して斉明天皇) | 642〜645年、655〜661年 | 645年の乙巳の変のあと譲位。斉明天皇として百済救援に向かう途中、筑紫で没する |
| 持統天皇 | 690〜697年 | 飛鳥浄御原令の施行、庚寅年籍の作成、藤原京への遷都 |
| 元明天皇 | 707〜715年 | 和同開珎の鋳造、平城京への遷都 |
| 元正天皇 | 715〜724年 | 『日本書紀』の完成、三世一身法 |
| 孝謙天皇(重祚して称徳天皇) | 749〜758年、764〜770年 | 東大寺の大仏開眼供養。称徳天皇のときは道鏡を重く用いる |
持統天皇は、夫の天武天皇が686年に亡くなると、即位しないまま政治をとり(称制)、690年に正式に即位しました。この時期の女性天皇には、皇位を継ぐべき皇子が幼いときなどに位を受け継いだ例が多く、中継ぎの性格が強いとする見方が一般的です。
律令制のもとでは、男女で扱いがはっきり分けられていました。口分田は6歳以上の男女に支給されましたが、女子の額は男子の2段の3分の2でした。一方、調・庸・雑徭や兵役といった重い負担は、21歳から60歳の成年男子(正丁)に課されました。
平安時代:婚姻のかたちと女性による仮名文学
平安時代の貴族の間では、夫が妻の家に通ったり、妻の家で暮らしたりする婚姻が多く見られ、生まれた子は母方の家で育てられることが多くありました。この婚姻の呼び方や実態については研究者の間で議論があり、諸説あります。
子が母方で育つため、天皇の母方の祖父や親族である外戚は、天皇に対して大きな影響力を持ちました。藤原氏は娘を天皇の后とし、生まれた皇子が即位すると、外戚の立場を生かして摂政・関白の地位につきました。藤原道長が外孫の後一条天皇のもとで力をふるったのは、その代表的な例です。つまり、この時代の婚姻のかたちが、摂関政治を支える土台の一つになっていました。
后のもとには、才能ある女性たちが女房として仕えました。藤原道長の娘で一条天皇の中宮となった彰子には紫式部が、藤原道隆の娘で同じく一条天皇の中宮となった定子には清少納言が仕えています。漢字を「男手」と呼んだのに対し、平仮名は「女手」とも呼ばれ、女性がおもに用いました。こうした仮名を使って、女性たちは心の動きを細やかに表す作品を書きました。


| 作品 | 作者 | 内容 |
|---|---|---|
| 『源氏物語』 | 紫式部 | 光源氏を主人公とする長編の物語。作者は中宮彰子に仕えた |
| 『枕草子』 | 清少納言 | 宮廷での生活を鋭い感覚で記した随筆。作者は中宮定子に仕えた |
| 『蜻蛉日記』 | 藤原道綱の母 | 夫の藤原兼家との結婚生活をふり返った日記 |
| 『更級日記』 | 菅原孝標の娘 | 『源氏物語』にあこがれた少女時代からの半生を回想した日記 |
鎌倉時代:所領を相続する女性と北条政子
鎌倉時代の武士は、所領を子どもたちに分けて継がせる分割相続を行っていました。中心となる所領は一族をまとめる惣領が受け継ぎ、残りは惣領以外の男子(庶子)や女子にも分けられました。女子も所領を持つ一人の領主になりえたのです。
1232年に定められた御成敗式目にも、女子に譲った所領を親があとから取り戻せること(悔返し)を定めた条文があります。女性が所領を持つ場面を想定した規定が、武家の法の中に置かれていたことが分かります。
この時代を代表する女性が、源頼朝の妻の北条政子です。頼朝の死後に出家しましたが、父の北条時政や弟の義時とともに幕府の政治に深く関わりました。3代将軍の源実朝が殺されると、京都から九条頼経を将軍として迎え、自分がその後見となったため、「尼将軍」と呼ばれました。1221年の承久の乱では、動揺する御家人たちに頼朝以来の幕府の恩を説き、結束させて幕府を勝利に導きました。
鎌倉後期〜室町時代:単独相続と家の確立
分割相続を何代も繰り返すと、一人ひとりの所領はしだいに細かくなり、武士の生活が苦しくなります。そこで鎌倉時代の中ごろ以降、女子などに譲る所領を本人の一生の間だけに限り、死後は惣領に返させる一期分という方法が広がりました。
さらに南北朝期には単独相続への流れが強まり、室町時代には家を継ぐ嫡子が所領をまとめて受け継ぐ単独相続が確立しました。後家や女子への所領の譲与はしだいに行われなくなり、女性の財産を持つ権利は弱まっていきました。


| 相続の方法 | 広がった時期 | 女性との関係 |
|---|---|---|
| 分割相続 | 鎌倉時代 | 女子も所領を分けて受け継ぐ |
| 一期分 | 鎌倉時代の中ごろ以降 | 女子の所領は本人一代限りで、死後は惣領へ返す |
| 単独相続 | 南北朝期から広がり、室町時代に確立 | 嫡子がまとめて受け継ぎ、女子への所領の譲与はなくなっていく |
江戸時代:家制度と女性の暮らし・学び
江戸時代には家制度が確立し、家を守り受け継ぐことが重んじられました。武家社会では儒教の考え方も加わり、夫を亡くした女性(後家)には亡き夫の家を守ることが求められるようになります。中世の武家社会に比べて、近世の武家の女性の地位は低くなりました。
こうした考え方を広めたのが、江戸時代の中ごろ以降に普及した女子の教訓書『女大学』です。夫やその両親に従うことを説いた内容で、貝原益軒の著作『和俗童子訓』をもとにして作られたと考えられています。益軒が書いたとされてきましたが、その確証はありません。明治時代になると、福沢諭吉が『新女大学』を著して批判しました。
離婚の方法にも、男女の差がありました。庶民の離婚は、夫が妻に離縁状を渡すことで成立し、3行半で書く慣習から三行半とも呼ばれます。妻の側から離婚を求める道は限られていたため、一定期間(約3年)尼寺で過ごせば離婚が認められる縁切寺が、妻にとっての救済の手段になりました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 離縁状(三行半) | 夫から妻に渡す。受け取ると、双方とも再婚できるようになる |
| 縁切寺(駆込寺) | 妻が駆け込み、一定期間過ごすと離婚が認められた尼寺 |
| 主な縁切寺 | 相模国鎌倉の東慶寺、上野国(群馬県)の満徳寺 |
| 『女大学』 | 江戸中期以降に普及した女子の教訓書。夫や舅・姑に従うことを説く |
なお、1629年には、紫衣事件などで幕府の干渉に反発した後水尾天皇がにわかに譲位し、皇女が明正天皇として位を継ぎました。奈良時代の称徳天皇以来の女性天皇です。
明治時代:女子教育の始まりと明治民法・政治活動の制限
明治政府は近代化を進めるなかで、女子の教育にも目を向けました。1871年には、開拓使が募集した5人の少女が、岩倉使節団に同行してアメリカへ渡りました。日本最初の女子留学生で、最年少の津田梅子は帰国後に英語教育にたずさわり、1900年に東京麹町で女子英学塾(のちの津田塾大学)を開きました。また、1872年の学制にあわせて出された布告では、身分や男女の区別なく学ぶべきだとされました。
しかし、明治20年代になると、女子教育はしだいに良妻賢母、つまり家庭で夫を支え子を育てる女性を育てることを目標とする方向へ進みます。1899年の高等女学校令は、道府県に高等女学校の設置を義務づけ、女子の中等教育の制度を整えましたが、家事や裁縫などが重んじられ、男子の中学校とは教育の内容に差がありました。
| 年 | 出来事 | ポイント |
|---|---|---|
| 1871年 | 5人の女子留学生の渡米 | 岩倉使節団に同行。津田梅子・山川捨松(のちの大山捨松)ら |
| 1872年 | 学制の公布 | 男女の区別なく学ぶべきだとした |
| 1872年 | 富岡製糸場の開業 | 士族の子女などが工女として器械製糸の技術を学ぶ |
| 1899年 | 高等女学校令 | 良妻賢母を目標とする女子の中等教育 |
| 1900年 | 女子英学塾の開設 | 津田梅子が創設。英語教育と英語教員の養成 |
産業の面では、群馬県に開業した官営の富岡製糸場で、工女たちがフランス人の指導のもと器械製糸の技術を身につけ、各地へ広めました。1886年には山梨県甲府の雨宮製糸で、工女100人余りが労働条件の悪化に反対して仕事を拒みました。日本最初の工場労働者のストライキとされます。


政治の面では、自由民権運動の中で岸田俊子や福田英子が男女の平等を説きました。しかし政府は、1890年の集会及政社法で女性の政談集会への参加や政治結社への加入を禁じ、1900年の治安警察法でも第5条で同じ禁止を引き継ぎました。
家族のしくみも法律で固められました。1898年に施行された明治民法は、家の長である戸主に、家族の婚姻に同意する権利や住む場所を決める権利などの戸主権を与えました。戸主の地位と財産を1人が受け継ぐ家督相続では、男子が女子より優先され、普通は長男が継ぎました。こうして、女性が家の中で低い立場に置かれるしくみが法律によって定められたのです。
| 年 | 法令 | 女性の政治活動への影響 |
|---|---|---|
| 1890年 | 集会及政社法 | 政談集会への参加と政治結社への加入を禁止 |
| 1900年 | 治安警察法第5条 | 同じく政治結社への加入と政談集会への参加を禁止 |
| 1922年 | 治安警察法第5条の改正 | 政談集会への参加は認められたが、政治結社への加入は禁止のまま |
| 1945年 | 衆議院議員選挙法の改正 | 満20歳以上の男女に選挙権が認められる |


大正〜昭和戦前:青鞜社・新婦人協会と婦人参政権運動
1911年、平塚らいてうらは青鞜社を結成し、女性だけの手による文芸誌『青鞜』を創刊しました。創刊号に載せたらいてうの文「元始、女性は太陽であった」は、女性の自覚と解放をうったえる言葉として大きな反響を呼びました。『青鞜』はやがて文芸誌から婦人問題を論じる雑誌へと性格を変え、そこに集まった女性たちは「新しい女」と呼ばれて注目を浴びましたが、1916年に廃刊となりました。
1920年には、平塚らいてう・市川房枝・奥むめおらが新婦人協会を結成しました。治安警察法第5条の改正や婦人参政権を求めて議会への請願を重ね、1922年に第5条の一部改正を実現して、女性が政談集会に参加することを認めさせました。一方、1921年には山川菊栄・伊藤野枝らが、日本最初の社会主義の女性団体である赤瀾会をつくっています。
運動は、参政権の獲得へと進みました。1924年に市川房枝らが婦人参政権獲得期成同盟会を結成し、翌1925年に婦選獲得同盟と改称しました。ところが、同じ1925年の普通選挙法で選挙権を得たのは、25歳以上の男子だけでした。1930年には婦人公民権法案が衆議院で可決されましたが、翌年に貴族院で否決され、戦前のうちに女性の参政権は実現しませんでした。
また、紡績工場などで働く女性の状態は社会問題となりました。1911年には日本最初の労働者保護法である工場法が公布され(施行は1916年)、女子と年少者の労働時間の制限や深夜業の禁止が定められましたが、適用されない工場も多く、保護には限界がありました。
戦後:女性参政権の実現と民法の改正
敗戦後の1945年10月、マッカーサーは幣原喜重郎首相に、参政権による婦人の解放などの五大改革を求めました。11月には治安警察法が廃止され、12月には衆議院議員選挙法が改正されて、満20歳以上の男女に選挙権が認められました。
1946年4月10日の戦後初の総選挙では、女性が初めて投票し、39人の女性議員が誕生しました。同じ年の11月3日に公布された日本国憲法は、法の下の平等を定めて性別による差別を禁じ(第14条)、婚姻や家族に関する法律は個人の尊厳と両性の本質的平等にもとづいて定めることとしました(第24条)。


憲法の原則に合わせて、1947年には民法の親族編・相続編が全面的に改正されました。戸主権と家督相続は廃止され、子どもが男女の別なく等しく財産を分けて相続するしくみが定められました。同じ1947年の教育基本法には、男女共学も盛りこまれています。
| 項目 | 明治民法(1898年施行) | 改正後の民法(1947年改正) |
|---|---|---|
| 家のしくみ | 戸主を長とする家制度 | 家制度を廃止 |
| 家族への権限 | 戸主が婚姻への同意権や居所の指定権を持つ | 戸主権を廃止 |
| 相続 | 家督相続(男子を優先し、普通は長男が単独で継ぐ) | 子どもが男女の別なく等しく分ける相続 |
| もとになる考え方 | 家を中心とする考え方 | 個人の尊厳と両性の本質的平等(日本国憲法第24条) |
高度経済成長期以後:雇用の平等と男女共同参画
国際的には、1979年の国際連合総会で女子差別撤廃条約が採択されます。日本は1980年に署名し、批准に向けて国籍法の改正などの条件を整えました。
その条件整備の一つとして1985年に成立したのが男女雇用機会均等法で(施行は1986年)、同じ年に日本は条約を批准しました。均等法は、募集・採用や配置・昇進で男女を均等に扱うことを事業主の努力義務とし、定年・退職・解雇などでの女性への差別を禁じました。のちに罰則がないことなどが批判され、1997年の改正で努力義務の部分は禁止の規定に改められました。
さらに1999年には男女共同参画社会基本法が公布・施行され、男女が性別にかかわりなく個性と能力を発揮できる男女共同参画社会の実現をめざす基本理念が定められました。


比べて覚える
女性史では、名前の似た団体や、目的の異なる運動を区別できるかがよく問われます。まずは大正時代を中心とした3つの団体を、だれが、何を目的に活動したかで比べましょう。


| 項目 | 青鞜社 | 新婦人協会 | 赤瀾会 |
|---|---|---|---|
| 結成 | 1911年 | 1920年 | 1921年 |
| 中心人物 | 平塚らいてう | 平塚らいてう・市川房枝・奥むめお | 山川菊栄・伊藤野枝ら |
| 性格 | 女性だけの文芸誌『青鞜』を出す文学の集団 | 女性の政治的・社会的地位の向上を求める団体 | 日本最初の社会主義の女性団体 |
| 主な活動・成果 | 女性の自覚と解放をうったえる | 治安警察法第5条の改正(1922年)を実現 | 第2回メーデーに参加 |
あわせて、中世の相続については「分割相続で所領が細かくなる→一期分→単独相続」という流れと、それにともなって女性の財産を持つ権利が弱まったという因果を、セットで説明できるようにしておきましょう(時代ごとに詳しく見るの相続の表を参照)。
入試で狙われるポイント
正誤問題では、年代や人物、法令の内容を少しずらした選択肢がよく出されます。誤った記述と正しい内容を対にして確認しましょう。
| 誤りやすい記述 | 正しい内容 |
|---|---|
| 卑弥呼の死後、男の王が立って国がおさまった | 男の王では国がおさまらず、13歳の壱与(台与)が立っておさまった |
| 律令制では、調・庸は男女の区別なく課された | 調・庸・雑徭は成年男子に課された |
| 一期分は、女子が所領を自由に子へ譲れるしくみである | 本人一代限りの相続で、死後は惣領に返す |
| 離縁状は、妻から夫に渡して離婚を成立させた | 離縁状は夫から妻に渡すもの。妻には縁切寺に駆け込む道があった |
| 1922年の改正で、女性の政治結社への加入が認められた | 認められたのは政談集会への参加だけで、政治結社への加入は禁止のまま |
| 新婦人協会は、平塚らいてうらが文芸誌を出すためにつくった | それは青鞜社。新婦人協会は治安警察法第5条の改正などを求めた団体 |
| 1925年の普通選挙法で、女性にも選挙権が認められた | 1925年は25歳以上の男子のみ。女性の選挙権は1945年の改正で実現 |
| 男女雇用機会均等法は、女子差別撤廃条約の採択と同じ1979年に成立した | 条約の採択は1979年、均等法の成立と条約の批准は1985年 |
順序の問題では、「集会及政社法→治安警察法→青鞜社→新婦人協会→第5条改正→期成同盟会→選挙法改正→民法改正」の流れを声に出して言えるようにしておくと安心です。
論述で使える要点
論述では、変化の理由と結果をつないで書くことが求められます。よく問われる2つのテーマについて、要点の例を示します。
例1「中世に女性の所領相続が変化した理由」(150字程度):鎌倉時代の武士は分割相続を行い、女子も所領を受け継いだ。しかし分割を繰り返すと所領が細分化したため、女子の所領を本人一代に限って死後は惣領に返す一期分が広がった。さらに室町時代には嫡子の単独相続が確立し、女子への所領の譲与は行われなくなって、女性の財産を持つ権利は弱まった。
例2「戦前の女性の政治参加をめぐる動き」(150字程度):政府は集会及政社法や治安警察法第5条で女性の政治活動を禁じた。これに対し平塚らいてうらの新婦人協会が請願を重ね、1922年に政談集会への参加が認められた。続いて婦人参政権獲得期成同盟会が参政権を求めたが戦前には実現せず、1945年の選挙法改正で満20歳以上の男女に選挙権が認められた。
| テーマ | 入れるべき用語 |
|---|---|
| 中世の相続と女性 | 分割相続、惣領、一期分、単独相続、嫁入婚 |
| 近世の女性の暮らし | 家、離縁状(三行半)、縁切寺、『女大学』 |
| 近代の女性と政治 | 集会及政社法、治安警察法第5条、新婦人協会、婦人参政権獲得期成同盟会 |
| 戦後の男女平等 | 五大改革、衆議院議員選挙法の改正、日本国憲法第24条、民法の改正、男女雇用機会均等法 |
確認問題
ここまで読んだ内容を、一問一答で確かめましょう。答えはすべてこの記事の中に出てきた語句です。答えを見る前に、まず自分の言葉で答えてみてください。
- 1239年に魏に使いを送り、親魏倭王の称号を授かった邪馬台国の女王は?死後、13歳の壱与(台与)が立って国がおさまった
- 2592年に即位した、確実な記録が残る最初の女性天皇は?聖徳太子のもとで冠位十二階・憲法十七条が定められた
- 3藤原道長の娘である中宮彰子に仕え、『源氏物語』を書いた女性は?中宮定子に仕えた清少納言は『枕草子』を書いた
- 4承久の乱で御家人に幕府の恩を説いて結束させ、尼将軍と呼ばれた女性は?源頼朝の妻で、九条頼経の後見となった
- 5女子などに譲る所領を本人一代限りとし、死後は惣領に返させた相続の方法は?所領の細分化を防ぐために広がった
- 6江戸時代、妻が駆け込み一定期間過ごすと離婚が認められた尼寺を何という?鎌倉の東慶寺と上野国の満徳寺が知られる
- 7江戸時代の中ごろ以降に普及し、夫やその両親に従うことを説いた女子の教訓書は?明治時代に福沢諭吉が『新女大学』で批判した
- 81871年に岩倉使節団に同行した女子留学生の一人で、1900年に女子英学塾を開いた女性は?女子英学塾はのちの津田塾大学
- 91900年に出され、第5条で女性の政治結社への加入や政談集会への参加を禁じた法律は?1922年に政談集会への参加だけが認められた
- 101911年に平塚らいてうらが結成し、文芸誌『青鞜』を創刊した団体は?創刊号に「元始、女性は太陽であった」を載せた
- 111920年に平塚らいてう・市川房枝・奥むめおらが結成した団体は?治安警察法第5条の改正を求めて請願を重ねた
- 121924年に市川房枝らが結成し、翌年に婦選獲得同盟と改称した団体は?女性の参政権の獲得をめざした
- 131946年の戦後初の総選挙で当選した女性議員の数は?前年の選挙法改正で満20歳以上の男女に選挙権が認められた
- 141947年の民法改正で廃止された、戸主の地位と財産を1人が受け継ぐ制度は?戸主権も廃止され、家制度がなくなった
- 15女子差別撤廃条約の批准に向けて1985年に成立した法律は?1986年に施行された
数日あけてから、もう一度この一覧に戻ってきてください。
ほかの時代の用語も確かめたいときは、日本史一問一答で地域や時代を混ぜて解いてみてください。
日本史 女性史の内容をまとめて復習できる解説つきの問題集(PDF・全19問)を用意しました。下のファイルをダウンロードして、印刷して使ってください。
テーマ史の勉強の進め方
女性史は、通史を一度学び終えてから取り組むと理解が深まります。通史では、女性天皇は古代の政治、北条政子は鎌倉幕府、青鞜社は大正時代の社会運動と、別々の単元で学びます。一本の線にまとめると、相続や婚姻のしくみの変化が女性の立場をどう変えたのかが見えてきます。
| 段階 | やること | 目安 |
|---|---|---|
| 1 | 通史の教科書で、各時代に出てくる女性や制度を確認する | 通史を一周したあと |
| 2 | この記事の年表を見て、4つの段階の流れを自分の言葉で説明する | 1回10〜15分 |
| 3 | 比較の表を隠して、団体や相続の違いを書き出す | あやふやな所に印をつける |
| 4 | 確認問題と論述の要点で、用語と因果を確かめる | 間をあけて繰り返す |
明治民法や戦後の民法改正は法制史と、女子英学塾や高等女学校は教育史とあわせて読むと、同じ出来事を別の角度から確かめられます。
通史とテーマ史をどの順番で進めればいいか、独学で間に合うかの判定方法は、日本史は独学で間に合う?で詳しく解説しています。論述の添削を頼める家庭教師やオンライン塾の選び方もまとめています。
関連するテーマ史
女性の立場は、法律や教育、産業、土地の制度、信仰と深く結びついています。あわせて読むと理解が深まるテーマ史を紹介します。
| テーマ史 | 女性史とのつながり |
|---|---|
| 日本史のテーマ史:法制史 | 御成敗式目、明治民法の家制度、戦後の民法改正が分かる |
| 日本史のテーマ史:教育史 | 学制や女子英学塾など、教育制度の流れが分かる |
| 日本史のテーマ史:農業・産業史 | 製糸業・紡績業の発達と、そこで働いた女性の背景が分かる |
| 日本史のテーマ史:土地制度史 | 口分田の支給額の男女差や、中世の所領のしくみが分かる |
| 日本史のテーマ史:仏教史 | 縁切寺となった尼寺など、寺院と社会のつながりが分かる |
ほかのテーマも、日本史のテーマ史の一覧でまとめて確認できます。
まとめ
日本の女性史は、女性も所領を持った時代から、家を単位とする相続で女性の権利が狭まった時代、近代の制限の時代を経て、戦後の法の上での男女平等へと移り変わってきました。どの段階でも、相続や婚姻、法律のしくみの変化が女性の立場を左右しています。
| 段階 | 女性の立場 | 変化の理由・きっかけ |
|---|---|---|
| 古代〜鎌倉時代 | 女性の天皇が現れ、女子も所領を相続した | 分割相続を繰り返して所領が細分化した |
| 鎌倉後期〜江戸時代 | 一期分・単独相続で女性の財産権が弱まり、家に従う立場に | 家を受け継ぐ男子を中心とするしくみが固まった |
| 明治〜昭和戦前 | 教育の機会は開かれたが、政治活動と家の中の立場は制限された | 女性たちの運動が法の改正を求めた |
| 戦後 | 参政権を得て、法の上での男女平等が定められた | 五大改革と日本国憲法による民主化 |
| 高度経済成長期以後 | 雇用の平等と男女共同参画をめざす法律が整う | 女子差別撤廃条約など国際的な動き |
年表で流れをつかみ、比較の表で違いを確かめ、論述の要点を自分の言葉で書き直してみてください。相続・婚姻・法律の3つの視点で説明できれば、時代をまたぐ問題にも対応できます。














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