中国との外交史は、日本史のテーマ史の中でも扱う期間がとくに長い分野です。1世紀の奴国の遣使から1978年の日中平和友好条約まで、日本は中国の王朝や政府とのあいだで、近づいたり距離をとったりをくり返してきました。
入試で軸になるのは、「中国の皇帝から称号を受けて臣下の形をとるか(冊封)」と「正式な国交があるのか、民間の貿易だけなのか」という2つの見方です。倭の五王と遣隋使、日宋貿易と日明貿易は、この2つの物差しで比べると違いがはっきりします。近代に入ると、関係の中心は条約と戦争に移ります。
この記事では、前近代の冊封と貿易を時代ごとにくわしく説明し、明治以降は条約・事件の名前と順序、その結果を表にまとめます。朝鮮半島や欧米との関係は、中国とのつながりに必要な範囲だけ触れます。
| この記事で分かること | 該当する節 |
|---|---|
| 1世紀から1978年までの日中関係の流れ | まず全体像 |
| 冊封・遣使・貿易の中身と、次の時代への影響 | 時代ごとに詳しく見る |
| 遣隋使と遣唐使、日宋貿易と日明貿易などの違い | 比べて覚える |
| 史料名・人物・順序のひっかけ | 入試で狙われるポイント |
| 論述で使える要点と用語 | 論述で使える要点 |

最後にこの記事の内容をまとめた確認プリントもあります!最後まで読み、プリントで復習してこの範囲を完璧にしましょう!
まず全体像:中国との関係の流れを一枚でつかむ
日本と中国の関係は、いくつかの型に分けると見通しがよくなります。称号を受けて冊封の関係に入った古代の段階、遣隋使・遣唐使で制度や文化を学んだ段階、正式な国交のないまま商人の船が行き来した段階、室町幕府が「日本国王」として朝貢した段階、そして近代の条約・戦争と戦後の国交正常化の段階です。
下の年表では、それぞれの転換点になった出来事を並べました。まず「ポイント」の列だけを読み、どの時代にどの型だったのかを頭に入れてください。


| 時代 | 年号 | できごと | ポイント |
|---|---|---|---|
| 弥生 | 57年 | 奴国の王が後漢に遣使 | 光武帝から印綬を受ける |
| 弥生 | 239年 | 卑弥呼が魏に遣使 | 「親魏倭王」の称号 |
| 古墳 | 478年 | 倭王武が宋に上表文 | 朝鮮半島南部を含む称号を求める |
| 飛鳥 | 600年 | 最初の遣隋使 | 『隋書』だけに記録がある |
| 飛鳥 | 607年 | 小野妹子を隋に派遣 | 対等な形式の国書 |
| 飛鳥 | 630年 | 最初の遣唐使 | 犬上御田鍬を派遣 |
| 平安 | 894年 | 遣唐使の派遣を中止 | 菅原道真の建議 |
| 鎌倉 | 1274年 | 文永の役 | 元・高麗の軍が博多湾に上陸 |
| 鎌倉 | 1281年 | 弘安の役 | 防塁と暴風雨で元軍が壊滅 |
| 室町 | 1401年 | 足利義満が明に使者を送る | 明との国交が開かれる |
| 室町 | 1404年 | 勘合貿易の開始 | 朝貢の形式をとる貿易 |
| 戦国 | 1523年 | 寧波の乱 | 以後は大内氏が独占 |
| 江戸 | 1715年 | 海舶互市新例 | 清船を年30隻に制限 |
| 明治 | 1871年 | 日清修好条規 | 互いに認め合う対等な条約 |
| 明治 | 1874年 | 台湾出兵 | 琉球の帰属がからむ |
| 明治 | 1894年 | 日清戦争が始まる | 朝鮮をめぐる対立 |
| 明治 | 1895年 | 下関条約・三国干渉 | 遼東半島は清に返還 |
| 大正 | 1915年 | 二十一カ条の要求 | 中国で反日の動きが強まる |
| 昭和 | 1931年 | 満州事変 | 柳条湖事件から始まる |
| 昭和 | 1932年 | 満州国の建国 | 日満議定書で承認 |
| 昭和 | 1933年 | 国際連盟からの脱退を通告 | 国際的な孤立 |
| 昭和 | 1937年 | 日中戦争が始まる | 盧溝橋事件がきっかけ |
| 昭和 | 1952年 | 日華平和条約 | 相手は中華民国 |
| 昭和 | 1972年 | 日中共同声明 | 中華人民共和国と国交正常化 |
| 昭和 | 1978年 | 日中平和友好条約 | 福田赳夫内閣のとき |
時代ごとに詳しく見る
ここからは、時代ごとに「どんな関係だったか」「なぜそうなったか」「次に何を残したか」を見ていきます。
弥生〜古墳時代:中国の史書に見える倭と冊封
文字の記録が残っていない時代の日本のようすは、中国の歴史書から分かります。中国の皇帝は、周辺の国の王に称号や印を与えて臣下とし、その地位を認めました。これを冊封といいます。冊封を受けた王は貢ぎ物を持たせた使者を送り(朝貢)、皇帝は返礼の品を与えました。王の側には、皇帝の権威を借りて自分の立場を強めるねらいがありました。
『後漢書』東夷伝によると、57年に奴国の王が後漢に使者を送り、光武帝から印綬を受けました。1784年に志賀島(現在の福岡市)で見つかった「漢委奴国王」の金印は、このとき与えられたものとされています。107年には、倭国王の帥升らが生口160人を献上しました。
3世紀には、邪馬台国の女王卑弥呼が239年に魏へ使者を送り、「親魏倭王」の称号と金印、銅鏡100枚などを与えられました(『魏志』倭人伝)。5世紀になると、讃・珍・済・興・武の倭の五王が南朝の宋などにたびたび使者を送りました。高句麗に対抗するため、朝鮮半島南部での軍事的な立場を中国の皇帝に認めてもらうことが目的でした。478年に宋へ送られた倭王武の上表文は『宋書』倭国伝に収められており、武は雄略天皇にあてる説が一般的です。
| 年 | 遣使した王 | 相手 | 記録した史料 | 受けたもの |
|---|---|---|---|---|
| 57年 | 奴国の王 | 後漢 | 『後漢書』東夷伝 | 印綬(「漢委奴国王」の金印とされる) |
| 239年 | 卑弥呼 | 魏 | 『魏志』倭人伝 | 「親魏倭王」の称号・金印・銅鏡100枚 |
| 5世紀 | 倭の五王 | 宋など | 『宋書』倭国伝 | 安東将軍などの称号 |
飛鳥時代:遣隋使と対等をめざした国書
倭王武のあと、中国との正式な交渉はおよそ1世紀のあいだ途絶えました。589年に隋が中国を統一すると、推古天皇の朝廷は再び使者を送ります。600年の最初の遣隋使は『隋書』倭国伝に記されていますが、『日本書紀』には記録がありません。
607年に派遣された小野妹子は、「日出づる処の天子」で始まる国書を届けました。隋の皇帝と対等な立場で書かれていたため、煬帝は無礼だとして不快に思いましたが、翌608年には使者の裴世清を日本に送りました。妹子は裴世清の帰国に同行して再び隋に渡り、このとき高向玄理・旻・南淵請安らの留学生・学問僧もいっしょに渡りました。彼らは中国で長く学び、帰国後は大化の改新などの国づくりに知識を生かしました。
| 年 | できごと | ポイント |
|---|---|---|
| 600年 | 最初の遣隋使 | 『隋書』にあり、『日本書紀』にはない |
| 607年 | 小野妹子を派遣 | 対等な形式の国書に煬帝が不快 |
| 608年 | 裴世清が来日し、妹子が再び隋へ | 高向玄理・旻・南淵請安らが同行 |
| 614年 | 犬上御田鍬を派遣 | 最後の遣隋使 |
奈良・平安時代:遣唐使とその中止
618年に隋にかわって唐がおこると、630年に犬上御田鍬が最初の遣唐使として派遣されました。遣唐使の主な目的は、唐の進んだ制度や文化を取り入れることです。一方で唐の側は、遣唐使を貢ぎ物を届ける朝貢の使いとして扱っていました。
663年には、百済の復興を助けるために渡った倭の軍が、白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗しました。朝鮮半島での足場を失った朝廷は、国内の防備を固めながら律令国家づくりを急ぎます。この戦いのくわしい経過は、朝鮮半島との外交史で扱います。
8世紀の遣唐使は、4隻の船に500人前後が乗る大きな使節団でした。留学生の吉備真備と学問僧の玄昉は唐で学んで帰国し、橘諸兄の政権で活躍しました。同じ遣唐使とともに渡った阿倍仲麻呂は唐の朝廷で重く用いられ、帰国できないまま唐で亡くなっています。
航路は、はじめ朝鮮半島の西岸にそって進む北路がとられました。しかし8世紀に新羅との関係が緊張すると、五島列島から東シナ海を横断する南路に切りかわります。南路は危険が大きく、遭難する船も少なくありませんでした。


894年、遣唐大使に任じられた菅原道真は、唐の国内が乱れて衰えていることや航海の危険を理由に、派遣の中止を建議して認められました。唐が滅びるのはその後の907年です。遣唐使が中止されたあとも、中国の商人の船は博多に来航し続けました。
| 項目 | 遣唐使の要点 |
|---|---|
| 始まり | 630年、犬上御田鍬 |
| 目的 | 唐の制度や文化を取り入れる |
| 航路 | はじめは北路、8世紀からは南路 |
| 主な人物 | 吉備真備・玄昉・阿倍仲麻呂 |
| 終わり | 894年、菅原道真の建議で中止 |
平安末〜鎌倉時代:日宋貿易と元寇
960年におこった宋と日本は、正式な国交を結びませんでした。それでも宋の商人は博多に来航し、大宰府の管理のもとで取引が行われました。12世紀後半には平清盛が瀬戸内海の航路を整え、摂津の大輪田泊(現在の神戸港の前身)を修築して、宋の商船が入港できるようにしました。宋から大量に入ってきた宋銭は、国内で銭が使われる範囲を広げました。


13世紀、モンゴルのフビライは高麗を従えたあと、日本にもたびたび使者を送って服属を求めました。執権北条時宗の鎌倉幕府はこれを拒みます。1274年、元と高麗の軍およそ2万8000人が対馬・壱岐を襲って博多湾に上陸しました(文永の役)。幕府軍は元軍の集団戦法や兵器に苦戦しましたが、元軍は暴風雨もあって引き上げました。
幕府は九州の御家人に異国警固番役を課し、博多湾の沿岸に石築地(防塁)を築かせて再来に備えました。1279年に南宋を滅ぼした元は、1281年に東路軍と江南軍あわせて約14万の大軍を送ります(弘安の役)。しかし防塁と武士の防戦に上陸をはばまれ、暴風雨にもあって壊滅しました。
| 項目 | 文永の役 | 弘安の役 |
|---|---|---|
| 年 | 1274年 | 1281年 |
| 軍勢 | 元・高麗の軍約2万8000人 | 東路軍と、旧南宋の兵が中心の江南軍。あわせて約14万人 |
| 経過 | 博多湾に上陸したが引き上げた | 防塁と防戦で上陸をはばまれ、暴風雨で壊滅 |
戦いのあとの恩賞は十分ではなく、防備の負担も続いたため、御家人の暮らしは苦しくなりました。幕府は1297年に永仁の徳政令を出し、御家人が売ったり質に入れたりした所領を無償で取り戻させました。しかし、かえって御家人がお金を借りにくくなるなどの混乱を招き、翌年には内容の多くが撤回されました。元寇は、幕府の衰えを早める原因の一つになりました。
元寇のあとも、民間の交易は続きました。鎌倉幕府は1325年、建長寺を建て直す費用を得るために建長寺船を元へ送りました。室町幕府も1342年に天龍寺船を送っています。天龍寺は、足利尊氏が後醍醐天皇の冥福を祈るために建てた寺で、夢窓疎石が開山です。
室町・戦国時代:日明貿易(勘合貿易)
1368年、元を北へ追いやって明が建国されました。明は海禁の政策をとり、民間の商人が海外に出て取引することを禁じて、周辺の国とは朝貢の形でだけ貿易を認めました。当時、中国や朝鮮半島の沿岸を荒らしていた倭寇の取り締まりも、明が日本に求めたことでした。
足利義満は博多商人肥富のすすめを受け、1401年に祖阿を正使、肥富を副使とする使者を明に送りました。義満は明の皇帝から「日本国王」に封じられ、1404年から勘合を用いた貿易が始まりました。勘合は明が発行した渡航の証明書で、明の側で原簿と照らし合わせ、正式な使いの船であることを確かめました。倭寇などの船と区別するためのしくみです。
日明貿易は、日本国王が明の皇帝に貢ぎ物をささげ、皇帝が返礼を与える朝貢の形式で行われました。皇帝からの返礼の品に加えて、使節に同行した商人の取引も認められたため、日本側の利益は大きくなりました。日本は銅銭・生糸・絹織物などを輸入し、銅・硫黄・刀剣・扇などを輸出しました。


4代将軍足利義持は、朝貢の形式を屈辱的だとして貿易を中止しましたが、6代将軍足利義教が1432年に再開しました。その後、実際の経営は有力な守護大名や大寺社に移り、応仁の乱のあとは、堺の商人と結ぶ細川氏と博多の商人と結ぶ大内氏が主導権を争いました。1523年に両者の使節が中国の寧波で衝突した寧波の乱のあとは、大内氏が貿易を独占しました。勘合船の派遣は1547年が最後となり、1551年に大内義隆が家臣の陶晴賢にそむかれて自害したのち、大内氏の滅亡とともに勘合貿易は断絶しました。


| 時期 | 将軍・大名 | できごと |
|---|---|---|
| 1401年 | 足利義満 | 祖阿・肥富を明に送る |
| 1404年 | 足利義満 | 勘合貿易が始まる |
| 15世紀前半 | 足利義持 | 朝貢の形式を嫌って中止 |
| 1432年 | 足利義教 | 貿易を再開 |
| 1523年 | 細川氏・大内氏 | 寧波の乱。以後は大内氏が独占 |
| 16世紀半ば | 大内氏 | 大内氏の滅亡とともに断絶 |
勘合貿易がとだえると、中国人が主体の倭寇(後期倭寇)が再び活発になりました。琉球王国も明に朝貢して冊封を受け、日本・中国・東南アジアを結ぶ中継貿易で栄えています。16世紀末には豊臣秀吉が朝鮮に出兵し(文禄・慶長の役)、朝鮮を助けた明の援軍と戦いました。講和の交渉で明が秀吉を日本国王に封じるとしたことに秀吉は怒って再び出兵しましたが、秀吉の死で兵を引きました。
江戸時代:国交のない長崎貿易と清
江戸時代の日本は、明とも、そのあとに中国を支配した清とも、正式な国交を結びませんでした。それでも中国の商船(唐船)は長崎に来航し、オランダ船とともに幕府の管理のもとで貿易が続きました。来航した中国人は、はじめ長崎の町に住むことができましたが、密貿易やキリスト教の広まりを防ぐため、1689年に長崎郊外に唐人屋敷が設けられ、住む場所がそこに限られました。
輸入品は生糸や絹織物、薬、書籍など、輸出品は銀・銅や海産物でした。代金として金・銀・銅が国外に出ていくことが問題になると、新井白石の意見により1715年に海舶互市新例が出されました。清船の来航を年30隻・取引額を銀6000貫、オランダ船を年2隻・銀3000貫までとし、清船には信牌という許可証を与えて、これを持つ船だけに取引を認めました。
| 年 | できごと | 内容 |
|---|---|---|
| 1689年 | 唐人屋敷を設ける | 来航した中国人の住む場所を長崎郊外に限る |
| 1715年 | 海舶互市新例 | 清船は年30隻・銀6000貫、オランダ船は年2隻・銀3000貫まで |
| 1715年 | 信牌を与える | 許可証を持つ清船にだけ取引を認める |
琉球は1609年に薩摩の島津氏に征服されたあとも中国への朝貢を続け、日本と中国の両方に属する形になりました。そのくわしい実態は北海道・沖縄史で扱います。
明治時代:日清修好条規から日清戦争へ
明治政府は1871年に清と日清修好条規を結び、正式な国交を開きました。互いに領事裁判権を認め合う対等な条約で、欧米と結んだ不平等な条約とは性格がまったく違います。同じ1871年には、台湾に漂着した琉球の島民が先住民に殺される事件が起きました。清が責任はないとしたため、政府は1874年に西郷従道の率いる軍を台湾に送りました(台湾出兵)。イギリスのなかだちで和議が成り、清が償金50万両を支払って決着しています。この出兵には琉球の帰属をはっきりさせるねらいもあり、1879年に政府が沖縄県を置くと(琉球処分)、清は強く反発しました。
その後、日清両国は朝鮮をめぐって対立を深めます。1885年の天津条約で両国は朝鮮から兵を引き、再び出兵するときは互いに知らせ合うと約束しました。1894年に朝鮮で甲午農民戦争が起こって両国が出兵し、日清戦争が始まりました。開戦の直前には、領事裁判権の撤廃を定めた条約がイギリスとのあいだで調印されています。
| 年 | できごと | ポイント |
|---|---|---|
| 1871年 | 日清修好条規 | 領事裁判権を互いに認める対等条約 |
| 1874年 | 台湾出兵 | 清が償金を支払って決着 |
| 1879年 | 琉球処分 | 沖縄県を置く。清は反発 |
| 1885年 | 天津条約 | 両国が朝鮮から撤兵 |
| 1894年 | 日清戦争 | 甲午農民戦争をきっかけに開戦 |
| 1895年 | 下関条約・三国干渉 | 遼東半島を清に返還 |
1895年の下関条約は、日本側の伊藤博文・陸奥宗光と清の李鴻章が下関で調印しました。清は、朝鮮の独立を認めること、遼東半島・台湾・澎湖諸島をゆずること、賠償金2億両を支払うこと、沙市・重慶・蘇州・杭州を開くことを受け入れました。
ところが調印の6日後、ロシア・ドイツ・フランスは遼東半島を清に返すよう勧告しました(三国干渉)。日本には3国に対抗する力がなく、代償金を受け取って返還しました。こののち列強は清から港湾などを租借して勢力範囲を広げ、1900年の北清事変のあとの北京議定書(1901年)で、清は賠償金の支払いと北京への外国軍の駐留を認めさせられました。
大正〜昭和戦前:二十一カ条の要求から日中戦争へ
1905年のポーツマス条約で、日本はロシアから旅順・大連の租借権と長春以南の鉄道を受けつぎ、翌年に南満州鉄道株式会社(満鉄)を設立しました。これが満州(中国東北部)に勢力をのばす足場になりました。
中国では1911年の辛亥革命で清が倒れ、翌1912年に中華民国が成立しました。第一次世界大戦が始まると、日本は日英同盟を理由に参戦し、ドイツの拠点だった山東省の青島を占領します。1915年、第2次大隈重信内閣(加藤高明外相)は袁世凱の政府に二十一カ条の要求を出し、山東省のドイツ権益の継承や旅順・大連の租借期限の延長などを、最後通牒によって受け入れさせました。中国では反日の感情が高まり、1919年にパリ講和会議で山東省の権益の返還が認められないと、北京の学生を中心に五・四運動が起こりました。
1920年代後半、中国の国民革命軍が国内の統一をめざして北伐を進めると、田中義一内閣は居留民の保護を名目に山東出兵を行いました。1928年には関東軍の参謀らが満州の軍閥張作霖を列車ごと爆殺し、田中内閣はこの事件がもとで総辞職しました。
1931年、関東軍は奉天郊外の柳条湖で満鉄の線路を爆破し、これを中国軍のしわざとして軍事行動を始めました(満州事変)。翌1932年には清朝最後の皇帝溥儀を執政とする満州国がつくられ、斎藤実内閣は日満議定書を結んで満州国を承認します。国際連盟が送ったリットン調査団は、日本の軍事行動を正当なものとは認めない報告書をまとめました。1933年の連盟総会がこれにもとづく勧告を採択すると、日本は国際連盟からの脱退を通告しました。
1937年7月、北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突し、日中戦争が始まりました。第1次近衛文麿内閣は不拡大の方針を示しましたが、戦線は中国の各地に広がります。中国では第2次国共合作が成立し、国民政府は重慶に移って抵抗を続けました。1938年1月に近衛首相が「国民政府を対手とせず」と声明したことで和平の道は閉ざされ、戦争は長期化しました。日中戦争は1941年に始まる太平洋戦争と一体となり、1945年の日本の敗戦まで続きました。


| 年 | できごと | 内閣・人物 | 結果 |
|---|---|---|---|
| 1915年 | 二十一カ条の要求 | 第2次大隈重信内閣 | 中国で反日の動きが強まる |
| 1927〜28年 | 山東出兵 | 田中義一内閣 | 北伐に干渉 |
| 1928年 | 張作霖爆殺事件 | 関東軍の参謀 | 田中内閣が総辞職 |
| 1931年 | 柳条湖事件・満州事変 | 関東軍 | 満州を占領 |
| 1932年 | 満州国・日満議定書 | 斎藤実内閣 | 満州国を承認 |
| 1933年 | 国際連盟脱退の通告 | 松岡洋右が総会から退場 | 国際的な孤立 |
| 1937年 | 盧溝橋事件・日中戦争 | 第1次近衛文麿内閣 | 全面的な戦争へ |
| 1938年 | 第1次近衛声明 | 近衛文麿 | 和平の道を閉ざす |
戦後:日中国交正常化と平和友好条約
1949年、中国では共産党が内戦に勝って中華人民共和国が成立し、国民党の中華民国政府は台湾に移りました。1951年のサンフランシスコ講和会議には、どちらの政府も招かれていません。そこで吉田茂内閣は1952年に中華民国と日華平和条約を結び、戦争状態を終わらせました。
1972年、田中角栄首相が北京を訪れ、周恩来首相とともに日中共同声明に調印しました。日本は中華人民共和国政府を中国の唯一の合法政府と認め、中国は日本への戦争賠償の請求を放棄して、両国の国交が正常化しました。これにともなって日華平和条約は終了しています。1978年には福田赳夫内閣のもとで日中平和友好条約が結ばれ、両国が覇権を求めないことなどが定められました。
| 年 | 条約・声明 | 相手 | 内閣 | 主な内容 |
|---|---|---|---|---|
| 1952年 | 日華平和条約 | 中華民国 | 吉田茂 | 戦争状態の終結 |
| 1972年 | 日中共同声明 | 中華人民共和国 | 田中角栄 | 国交正常化。中国は賠償請求を放棄 |
| 1978年 | 日中平和友好条約 | 中華人民共和国 | 福田赳夫 | 覇権を求めないことなど |
比べて覚える
名前の似た使節や貿易は、並べて違いを言えるようにしておきましょう。まずは遣隋使と遣唐使です。
| 項目 | 遣隋使 | 遣唐使 |
|---|---|---|
| 最初の派遣 | 600年(『隋書』だけに記録) | 630年、犬上御田鍬 |
| 中国との関係 | 対等な形式の国書を送る | 唐からは朝貢の使いとみなされた |
| 同行した人 | 高向玄理・旻・南淵請安 | 吉備真備・玄昉・阿倍仲麻呂 |
| 終わり | 隋が唐にかわる | 894年に中止 |
次に、中世の2つの貿易を比べます。「国交があったか」「朝貢の形式か」で区別すると、まちがえにくくなります。


| 項目 | 日宋貿易 | 日明貿易 |
|---|---|---|
| 国交 | 正式な国交はない | 義満が「日本国王」に封じられ、朝貢の形式 |
| 中心人物 | 平清盛 | 足利義満 |
| 日本側の拠点 | 博多、大輪田泊 | 博多・堺の商人 |
| 主な輸入品 | 宋銭・陶磁器・織物・書籍・香料 | 銅銭・生糸・絹織物 |
| 主な輸出品 | 金・硫黄・刀剣・水銀・漆器 | 銅・硫黄・刀剣・扇 |
近代では、日本と清が結んだ2つの条約の違いが問われます。対等な条約から、戦争の結果として日本に有利な条約へと変わった点を押さえましょう。
| 項目 | 日清修好条規 | 下関条約 |
|---|---|---|
| 年 | 1871年 | 1895年 |
| 全権 | 伊達宗城・李鴻章 | 伊藤博文・陸奥宗光・李鴻章 |
| 性格 | 領事裁判権を互いに認める対等条約 | 日清戦争の講和条約 |
| 主な内容 | 正式な国交を開く | 朝鮮の独立、遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、賠償金2億両 |
| その後 | 日清戦争で効力を失う | 三国干渉で遼東半島を返還 |
入試で狙われるポイント
正誤問題では、史料と王朝の組み合わせ、人物と出来事の組み合わせ、出来事の順序をずらした選択肢がよく出されます。左の列のような文を見たら、右の列の正しい内容をすぐに思い出せるようにしておきましょう。
| 誤りやすい記述 | 正しい内容 |
|---|---|
| 「漢委奴国王」の金印は、卑弥呼が魏から受けた | 57年に奴国の王が後漢から受けたとされる。卑弥呼は「親魏倭王」 |
| 倭の五王のことは『魏志』倭人伝に記されている | 『宋書』倭国伝。『魏志』倭人伝は卑弥呼の記録 |
| 600年の遣隋使は『日本書紀』に記されている | 『隋書』にだけ見える |
| 遣唐使は唐が滅びたため894年に廃止された | 894年は菅原道真の建議による中止。唐の滅亡は907年 |
| 勘合貿易は足利義持が始めた | 義満が始め、義持が中止し、義教が再開 |
| 寧波の乱のあと、細川氏が貿易を独占した | 独占したのは大内氏 |
| 日清修好条規は、日本だけが領事裁判権を持つ条約 | 互いに領事裁判権を認め合う対等条約 |
| 三国干渉で日本は台湾を返還した | 返還したのは遼東半島 |
| 1952年、中華人民共和国と日華平和条約を結んだ | 相手は中華民国。中華人民共和国とは1972年の日中共同声明 |
論述で使える要点
論述では、出来事の名前だけでなく、「なぜそうしたのか」と「その結果どうなったのか」を1つの文章にまとめる力が問われます。よく出る2つのテーマについて、要点の例を示します。
例1「遣唐使の役割と中止の背景」(150字程度):遣唐使は、唐の進んだ制度や文化を取り入れるために派遣され、留学生や学問僧が律令国家づくりや文化の発展に貢献した。はじめは朝鮮半島沿いの北路を通ったが、新羅との関係が緊張すると危険な南路をとった。894年、唐の衰えと航海の危険を理由に、菅原道真の建議で派遣は中止された。
例2「勘合貿易の形式と利益」(150字程度):足利義満は明の皇帝から日本国王に封じられ、朝貢の形式で貿易を始めた。明が発行した勘合で正式な船であることを確かめ、倭寇と区別した。皇帝の返礼に加えて商人の取引も認められたため、利益は大きかった。のちに細川氏と大内氏が争い、寧波の乱の後は大内氏が独占した。
| テーマ | 入れるべき用語 |
|---|---|
| 古代の冊封 | 冊封、朝貢、親魏倭王、倭の五王、朝鮮半島南部での立場 |
| 遣隋使・遣唐使 | 対等な形式の国書、留学生・学問僧、北路と南路、菅原道真 |
| 中世の貿易 | 日宋貿易、大輪田泊、宋銭、勘合、日本国王、寧波の乱 |
| 近代の日中関係 | 日清修好条規、下関条約、三国干渉、二十一カ条の要求、満州事変 |
確認問題
ここまでの内容を一問一答で確かめましょう。答えはすべてこの記事に出てきた用語です。声に出して答えてから確認してください。
- 157年に奴国の王が後漢から受けたとされ、1784年に志賀島で見つかった金印に刻まれた文字は?
- 2『後漢書』東夷伝に奴国の遣使の記事がある239年に卑弥呼が魏の皇帝から与えられた称号は?
- 3『魏志』倭人伝に記されている5世紀に南朝の宋などへ使者を送った讃・珍・済・興・武をまとめて何という?
- 4478年の倭王武の上表文は『宋書』倭国伝にある607年に隋へ派遣され、対等な形式の国書を届けた人物は?
- 5煬帝は国書を無礼だとして不快に思った630年に最初の遣唐使として派遣された人物は?
- 6614年の最後の遣隋使でもあった894年に遣唐使の派遣の中止を建議した人物は?
- 7唐の衰えと航海の危険が理由だった平清盛が日宋貿易のために修築した摂津の港は?
- 8現在の神戸港の前身にあたる元寇のあと、1297年に御家人の所領を無償で取り戻させた法令は?
- 9苦しくなった御家人の救済がねらい日明貿易で、正式な船であることを確かめるために使われた証明書は?
- 10明の側で原簿と照らし合わせた1523年に細川氏と大内氏の使節が中国で衝突した事件は?
- 11このあと大内氏が貿易を独占した1715年に新井白石の意見で出された、長崎貿易を制限した法令は?
- 12清船は年30隻・銀6000貫までとした1871年に日本と清が結んだ、互いに領事裁判権を認め合う条約は?
- 13日本にとって最初の対等な条約1895年、ロシア・ドイツ・フランスが遼東半島の返還を求めた出来事は?
- 14日本は代償金を受け取って返還した1931年、関東軍が柳条湖で満鉄の線路を爆破して始めた軍事行動は?
- 15翌年に満州国がつくられた1972年に田中角栄首相が調印し、中華人民共和国との国交を正常化した文書は?中国は戦争賠償の請求を放棄した
数日あけてから、もう一度この一覧に戻ってきてください。
ほかの時代の用語も確かめたいときは、日本史一問一答で地域や時代を混ぜて解いてみてください。
日本史 外交史(中国との関係)の内容をまとめて復習できる解説つきの問題集(PDF・全19問)を用意しました。下のファイルをダウンロードして、印刷して使ってください。
テーマ史の勉強の進め方
外交史のテーマ史は、通史をひととおり学んだあとに取り組むと効果が上がります。通史では、中国との関係が単元ごとにばらばらに出てきます。1本の線につなぎ直すと、「国交のない時期」と「冊封や条約で結ばれた時期」が交互に来ることが見えてきます。
| 段階 | やること | 目安 |
|---|---|---|
| 1 | 通史で、各時代の中国との関係を一度学ぶ | 通史が一周したあと |
| 2 | 年表の「ポイント」の列を見ながら、流れを口で説明する | 1回15分ほど |
| 3 | 比較の表を隠して、違いを書き出す | まちがえた所に印をつける |
| 4 | 確認問題と論述の要点で、用語と因果を確かめる | 数日おいて繰り返す |
通史とテーマ史をどの順番で進めればいいか、独学で間に合うかの判定方法は、日本史は独学で間に合う?で詳しく解説しています。論述の添削を頼める家庭教師やオンライン塾の選び方もまとめています。
関連するテーマ史
中国との外交は、朝鮮半島や欧米との外交、琉球の歴史、貨幣や仏教の歴史と深く結びついています。あわせて読むと理解が深まるテーマ史を紹介します。
| テーマ史 | 中国との外交史とのつながり |
|---|---|
| 日本史のテーマ史:外交史(朝鮮半島との関係) | 白村江の戦い、倭寇、文禄・慶長の役、日清戦争の原因となった朝鮮問題 |
| 日本史のテーマ史:外交史(欧米との関係) | 条約改正、三国干渉の列強、日露戦争、国際的な孤立 |
| 日本史のテーマ史:北海道・沖縄史 | 琉球の朝貢と冊封、琉球処分 |
| 日本史のテーマ史:貨幣・金融史 | 日宋貿易・日明貿易で入ってきた銭 |
| 日本史のテーマ史:仏教・宗教史 | 遣唐使とともに渡った僧、中国との僧の行き来 |
まとめ
日本と中国の関係は、冊封の古代、遣隋使・遣唐使の時代、国交のない交易の時代、朝貢貿易の室町時代、長崎貿易の江戸時代を経て、近代の条約と戦争、戦後の国交正常化へと移り変わってきました。
| 段階 | 中心となる出来事 | 次の段階へ移った理由 |
|---|---|---|
| 冊封の段階 | 奴国の遣使、卑弥呼、倭の五王 | 隋の統一後、対等な形式で使者を送る |
| 学びの段階 | 遣隋使・遣唐使 | 894年に中止 |
| 国交なしの交易 | 日宋貿易、元寇、寺社造営料唐船 | 明が朝貢の形の貿易だけを認める |
| 朝貢貿易 | 勘合貿易 | 大内氏の滅亡とともに断絶 |
| 長崎貿易 | 唐人屋敷、海舶互市新例 | 明治政府が清と条約を結ぶ |
| 条約と戦争 | 日清戦争、二十一カ条の要求、日中戦争 | 敗戦後、講和と国交の回復が必要になる |
| 戦後 | 日華平和条約、日中共同声明、日中平和友好条約 | 国交正常化と平和友好関係の確認 |
まずは年表の「ポイント」の列を覚え、次に比較の表で違いを確かめ、最後に論述の要点を自分の言葉で書いてみてください。「冊封を受けたか」「国交があったか」という2つの物差しで説明できるようになれば、中国との外交史は大きな得点源になります。














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