中国の土地・税制史は、世界史のテーマ史の中でも入試でよく問われる分野です。均田制、租調庸制、両税法、一条鞭法、地丁銀制と、名前の似た制度が王朝をまたいで登場するため、どの王朝のどの制度かを取りちがえやすいところでもあります。
入試では、制度の名前と王朝・皇帝の組み合わせに加えて、「なぜ税の取り方が変わったのか」という因果がよく問われます。たとえば、成年男子という「人」に税をかける租調庸制から、土地や資産に応じて税をかける両税法への転換は、論述問題でも定番のテーマです。
この記事では、中国の土地制度と税制の流れを年表でつかんだうえで、制度どうしの違いと、正誤問題で狙われるポイントを表で整理します。中国史の通史をひととおり学んだあとの復習に使ってください。

最後にこの記事の内容をまとめた確認プリントもあります!最後までしっかり読んで復習してください!
| この記事で分かること | 該当する節 |
|---|---|
| 漢から清までの土地制度・税制の流れ | まず全体像 |
| 各制度が生まれた理由と、崩れた理由 | 時代ごとに詳しく見る |
| 両税法・一条鞭法・地丁銀制の違い | 比べて覚える |
| 王朝と制度の組み合わせで誤りやすい点 | 入試で狙われるポイント |
| 論述で使える要点と用語 | 論述で使える要点 |
まず全体像:中国の土地・税制の流れを一枚でつかむ
中国の税制は、大きく見ると「人に課税する」段階から「土地や資産に課税する」段階へ、そして「銀で一本化して納める」段階へと移っていきました。その背景には、国家が農民に土地を割り当てる均田制が崩れ、国家が土地の配分をあきらめたという土地制度の変化があります。


| 時代 | 年号 | できごと | ポイント |
|---|---|---|---|
| 前漢 | 前7年 | 限田法 | 土地と奴婢の所有を制限しようとしたが実施されず |
| 新 | 1世紀初め | 王莽の王田制 | 土地と奴婢の売買を禁じたが失敗 |
| 西晋 | 280年 | 占田・課田法 | 中国統一の直後に土地の基準を定める |
| 北魏 | 485年 | 均田制 | 孝文帝が農民に土地を割り当てる |
| 北魏 | 486年 | 三長制 | 村落を組織して戸籍と徴税を整える |
| 隋・唐 | 6〜7世紀 | 均田制・租調庸制・府兵制 | 土地の割り当てと税・兵役がセット |
| 唐 | 710年 | 最初の節度使(河西節度使) | 辺境に強い軍事力が生まれる |
| 唐 | 749年 | 府兵制の停止 | 募兵制へ移る |
| 唐 | 755〜763年 | 安史の乱 | 租調庸制の破綻が決定的に |
| 唐 | 780年 | 両税法 | 楊炎の建議。資産に応じて夏と秋に課税 |
| 北宋 | 1069年〜 | 王安石の新法 | 財政の立て直しと中小農民の保護 |
| 明 | 1381年 | 賦役黄冊・里甲制 | 戸籍と村落の組織を整える |
| 明 | 1387年 | 魚鱗図冊 | 土地を測量して台帳を作る |
| 明 | 16世紀 | 一条鞭法 | 税と労役を銀でまとめて納める |
| 清 | 1712年 | 人頭税の額を固定 | 以後に増えた成年男子には人頭税を課さない |
| 清 | 18世紀前半 | 地丁銀制が全国に広がる | 人頭税を土地税に繰り込む |
| 清 | 1853年 | 天朝田畝制度 | 太平天国が土地の均分を掲げる |
| 中華人民共和国 | 1950年 | 土地改革法 | 地主の土地を没収して農民に分配 |
時代ごとに詳しく見る
ここからは、王朝ごとに土地制度と税制の中身を見ていきます。どの時代にも共通するのは、国家が農民を直接つかんで税を取ろうとする力と、有力者が土地を集めて農民を支配下に置こうとする力の引っぱり合いです。この対立を意識して読むと、制度が変わる理由がつかみやすくなります。
前史:漢から西晋までの土地政策
前漢の後半には、有力者が土地や奴婢を多く抱えこむようになりました。国家が税を取れる自作農が減ると、財政にとって大きな問題になります。そこで前漢末の哀帝の時代、紀元前7年に師丹らの建議で限田法が出され、1人が持てる土地や奴婢の数に上限を設けようとしました。しかし、反対が強く、実施されませんでした。なお、土地の所有を制限する考え方は、それより前に董仲舒も唱えていたとされます。
前漢を倒して新を建てた王莽は、全国の田を「王田」と呼び、土地や奴婢の売買を禁じました。しかし、周の制度を理想とする現実離れした改革だったため、かえって社会の混乱を深め、失敗に終わりました。
三国時代の魏では、曹操が国有地に民を入れて耕作させ、収穫の5〜6割を納めさせる屯田制を行いました。屯田からの収入は、魏の重要な財源になりました。その後、呉を滅ぼして中国を統一した西晋の武帝(司馬炎)は、280年に占田・課田法を出しました。男女ごとに持てる土地の広さなどを定めたものですが、課田の意味などには諸説があり、どこまで実施されたかもよく分かっていません。
| 王朝 | 政策 | ねらい | 結果 |
|---|---|---|---|
| 前漢 | 限田法 | 有力者の土地と奴婢の所有を制限する | 実施されず |
| 新 | 王田制 | 土地と奴婢の売買を禁じる | 現実に合わず失敗 |
| 魏 | 屯田制 | 国有地を耕させ、財源を確保する | 魏の重要な財源になった |
| 西晋 | 占田・課田法 | 土地の所有と耕作に基準を設ける | 内容の解釈に諸説あり |
北魏:均田制と三長制の始まり
北魏は、鮮卑の拓跋珪(道武帝)が建てた王朝で、439年に第3代の太武帝が華北を統一しました。こうして、五胡十六国の時代から続いた華北の分裂は終わりました。
そこで孝文帝の時代、485年に均田制が始まりました。国家が農民に土地を割り当てて耕作させ、その代わりに税を納めさせるしくみです。男子だけでなく女子にも土地が割り当てられ、さらに奴婢や耕牛にも土地が支給されました。多くの奴婢や牛を持つ有力者にとっても、受け取る土地が増えるしくみだったことになります。
翌486年には、李沖の献策で三長制が定められました。5家を隣、5隣を里、5里を党とし、それぞれに長を置いて、戸籍の作成や税の取り立てを担わせる制度です。均田制と三長制がそろったことで、国家が農民を直接つかむしくみが整いました。
| 単位 | まとまり | 長 |
|---|---|---|
| 隣 | 5家 | 隣長 |
| 里 | 5隣(25家) | 里長 |
| 党 | 5里(125家) | 党長 |
隋・唐:均田制・租調庸制・府兵制のセット
北魏の均田制は、北朝の諸王朝をへて隋と唐に受け継がれました。なお、隋の煬帝のときには、女子や奴婢への土地の支給はやめられています。唐では、均田制で土地を割り当て、租調庸制で税を取り、府兵制で兵士を集めるという3つの制度が組み合わされていました。


| 制度 | 内容 |
|---|---|
| 均田制 | 成年男子(丁男、およそ21〜59歳)に口分田80畝と永業田20畝を割り当てる。口分田は60歳になるか死亡すると返し、永業田は子孫に受け継げる |
| 租 | 穀物(粟2石)を納める |
| 調 | 絹と真綿(または麻布と麻)を納める |
| 庸 | 年20日の労役。実際には、代わりに絹などを納めることが多かった |
| 府兵制 | 農民を兵士とする兵農一致の兵制。西魏に始まり、隋・唐で整えられた |


この3つはどれも、均田制で土地を受けた農民が戸籍に登録されていることを前提にしていました。つまり、戸籍にもとづく支配が崩れると、税制も兵制も同時に立ちゆかなくなるという弱点を持っていたのです。なお、日本の班田収授法は、この均田制を受け継いで作られた制度です。
唐の後半:均田制の崩壊と両税法
8世紀になると、律令にもとづく唐の支配がゆらぎはじめました。重い負担に苦しむ中小の農民が没落し、戸籍に登録された土地を離れて流亡する者が増えます。戸籍が実態と合わなくなると、人を単位に税を取る租調庸制は、しだいに機能しなくなりました。
兵制も変わりました。唐はしだいに兵士を募集して雇うようになり、749年には府兵制を停止して募兵制に切りかえました。辺境の防衛には、710年の河西節度使を最初として節度使が置かれました。やがて范陽・平盧・河東の3つの節度使を兼ねた安禄山が大きな勢力となり、755年に史思明らとともに反乱を起こします。763年まで続いたこの安史の乱で、戸籍にもとづく税の取り立ては完全に行きづまり、国家財政は危機に陥りました。


そこで徳宗の時代の780年、宰相の楊炎の建議で両税法が始まりました。両税法は、本籍地ではなく実際に住んでいる土地で、持っている土地や資産の大きさに応じて税をかけ、夏と秋の2回に分けて納めさせる制度です。納め方は原則として銭でしたが、実際には穀物や絹で納めることもありました。
| 項目 | 租調庸制 | 両税法 |
|---|---|---|
| 課税の対象 | 成年男子(人) | 土地・資産 |
| 登録の基準 | 本籍地の戸籍 | 実際に住んでいる土地 |
| 納める時期 | 税目ごとに定める | 夏と秋の2回 |
| 納める物 | 穀物・絹・布などの現物と労役 | 原則として銭(実際には現物もあった) |
| 前提 | 均田制による土地の割り当て | 土地の割り当てを前提にしない |
両税法の採用とともに、均田制は廃止されました。国家が土地を割り当てるという考え方をやめ、人々がすでに持っている土地や資産から税を取るという方向に転換したのです。この転換は、以後の中国の税制の基本になりました。
宋:新しい地主層と王安石の新法
唐の末期から、各地で有力な家が力をのばしました。宋の時代になると、こうした家は形勢戸と呼ばれる新しい地主層となり、科挙を通じて多くの官僚を出しました。地主の土地は、佃戸と呼ばれる小作人が耕しました。官僚を出した家は官戸と呼ばれ、労役を免除される特権を持ちました。


| 用語 | 意味 | 注意点 |
|---|---|---|
| 形勢戸 | 唐末から台頭し、宋代に力を持った新しい地主層 | 官僚の供給源になった |
| 佃戸 | 地主の土地を借りて耕す小作人 | 宋代以後に一般的になった |
| 官戸 | 宋代以後、官僚を出した家。労役を免除された | 唐代の「官戸」は官庁に属する身分の低い人々を指し、意味がちがう |
北宋の中ごろには、大きくなった官僚組織を維持する費用や、北方の遼・西夏に備える国防費がかさみ、財政が苦しくなりました。一方で、官僚による大土地所有が進み、農民は貧しくなっていました。そこで神宗は王安石を登用し、1069年から新法と呼ばれる改革を順に実施しました。
| 主な新法 | 内容 |
|---|---|
| 青苗法 | 植えつけの前に、国が農民に穀物や銭を低い利息で貸し、収穫のときに返させる |
| 募役法 | 労役の負担を銭(免役銭)に切りかえ、その銭で人を雇って役にあてる |
| 均輸法 | 政府が必要な物資を、多く産する地方で調達させ、商人の中間の利益をおさえる |
| 市易法 | 商人に低い利息で資金を貸す |
| 保甲法 | 農家を組織して治安にあたらせ、農閑期に軍事の訓練をさせる |
新法は、地主や大商人の利益をおさえて農民や中小の商人を守り、国の財政を立て直すことをねらいました。しかし、利益をおびやかされた地主や大商人、そして司馬光ら旧法党と呼ばれる官僚たちから、強い抵抗を受けました。
明:里甲制と2つの台帳、そして一条鞭法
明の洪武帝は、農村を直接つかむしくみを整えました。1381年には、全国で賦役黄冊を作らせるとともに里甲制を定めました。110戸を1里とし、そのうち豊かな10戸を里長戸、残りの100戸を10甲に分け、毎年交代で租税の取り立てや治安の維持にあたらせる制度で、10年で一巡しました。さらに1387年には、土地を測量して魚鱗図冊を作らせました。


| 台帳 | 中身 | 覚え方 |
|---|---|---|
| 賦役黄冊 | 戸ごとの人数や財産を記した戸籍・租税台帳 | 人をつかむ台帳 |
| 魚鱗図冊 | 土地の形や面積、持ち主を記した土地台帳 | 土地の図が魚のうろこのように見える |
明の後半になると、国際的な交易を通じて大量の銀が中国に流れこみました。日本との貿易でもたらされた日本銀や、スペインがマニラ経由でもたらしたアメリカ大陸(メキシコなど)産の銀です。銀が広く使われるようになると、土地税や労役など細かく分かれていた負担を、1つにまとめて銀で納めさせる方法が生まれました。これが一条鞭法です。




一条鞭法は16世紀に江南などで地方ごとに始まりました。万暦帝の時代に張居正が全国の土地を測量し直すと(1580〜82年)、その後に広く普及し、16世紀末までにはほぼ全国で行われるようになりました。税を種類ごとに別々に納める手間が省かれた一方で、中国の税制は銀と深く結びつくことになりました。
清:地丁銀制で人頭税が消える
清の税には、土地にかかる地銀と、成年男子にかかる人頭税の丁銀がありました。1712年、康熙帝は前年の成年男子の数を基準に丁銀の額を固定し、それ以後に増えた成年男子には丁銀を課さないことにしました。この決まりは翌年から実施されました。
丁銀の額が固定されたことで、丁銀を地銀に繰り込んで、土地税として一本化して納めさせることができるようになりました。これが地丁銀制で、康熙帝の末年に広東などで始まり、雍正帝の時代に全国の各省へ広がりました。
地丁銀制によって、丁銀は土地税の中に吸収され、人にかかる税としての役割を失いました。北魏から唐までの均田制の時代には人を単位に税を取っていた中国の税制は、ここで土地を単位に取る形にほぼまとまったことになります。
その後:太平天国と中華人民共和国の土地改革
19世紀半ば、太平天国は南京を占領した直後の1853年に、天朝田畝制度を発布しました。16歳以上の男女に区別なく平等に土地を分け、各自に必要な分を超える生産物は国庫(聖庫)に納めさせるという理想を掲げた制度案でしたが、実際にはほとんど行われませんでした。
20世紀に入り、中華人民共和国が成立すると、1950年に土地改革法が公布されました。地主の土地や農具などを没収し、農民に分け与える改革で、長く続いた地主と小作人の関係は大きく変わりました。
比べて覚える
中国の税制で最も混同しやすいのが、両税法・一条鞭法・地丁銀制の3つです。「どの王朝か」「何に課税するか」「何で納めるか」の3点で並べると、違いがはっきりします。
| 項目 | 両税法 | 一条鞭法 | 地丁銀制 |
|---|---|---|---|
| 王朝 | 唐(780年) | 明(16世紀) | 清(18世紀前半に全国へ) |
| 関係する人物 | 徳宗・楊炎 | 張居正(全国に広がるきっかけ) | 康熙帝・雍正帝 |
| しくみ | 土地・資産に応じて夏と秋の2回に課税 | 土地税や労役を1つにまとめて銀で納める | 丁銀(人頭税)を地銀(土地税)に繰り込む |
| 背景 | 農民の流亡、安史の乱による財政危機 | 日本銀やアメリカ大陸の銀の流入 | 1712年の丁銀の額の固定 |
もう一つ、土地制度の側から見ると、北魏から唐までの均田制の時代と、宋以降の地主と佃戸の時代とを対比させることが大切です。国家が土地を割り当てる時代から、人々が持つ土地を前提に課税する時代へという大きな転換を押さえておきましょう。
| 項目 | 北魏〜唐(均田制の時代) | 宋〜清(地主と佃戸の時代) |
|---|---|---|
| 土地 | 国家が農民に割り当てる | 地主が所有し、佃戸などが耕す |
| 課税の単位 | 人(成年男子) | 土地・資産 |
| 国家による把握 | 戸籍と三長制(北魏) | 賦役黄冊・魚鱗図冊と里甲制(明) |
入試で狙われるポイント
正誤問題では、制度と王朝、制度と人物の組み合わせをずらした選択肢がよく出されます。次の表の左の列のような文を見たら、右の列の正しい内容をすぐに思い出せるようにしておきましょう。
| 誤りやすい記述 | 正しい内容 |
|---|---|
| 均田制は唐の太宗が始めた | 北魏の孝文帝の時代に485年に始まり、隋・唐が受け継いだ |
| 両税法は宋の王安石の建議で始まった | 唐の徳宗の時代に、楊炎の建議で780年に始まった |
| 両税法は、本籍地で成年男子に課税した | 実際に住む土地で、土地・資産に応じて課税した |
| 一条鞭法は清の雍正帝が全国に広げた | 明の張居正による土地の測量のあと、16世紀末までにほぼ全国に広がった。雍正帝は地丁銀制 |
| 地丁銀制で、地銀が丁銀に繰り込まれた | 逆で、丁銀(人頭税)が地銀(土地税)に繰り込まれた |
| 魚鱗図冊は戸籍・租税台帳である | 魚鱗図冊は土地台帳。戸籍・租税台帳は賦役黄冊 |
| 青苗法は商人に資金を貸す法である | 農民に低い利息で貸す法。商人に貸すのは市易法 |
| 天朝田畝制度によって土地の均分が実現した | 発布されたが、実際にはほとんど行われなかった |
論述で使える要点
論述では、税制の名前を並べるだけでなく、「なぜ変わったのか」を土地制度や社会の変化と結びつけて説明することが求められます。よく問われる2つのテーマについて、要点の例を示します。
例1「唐における税制の転換」(150字程度):唐は均田制で成年男子に土地を割り当て、租調庸制で課税し、府兵制で兵を集めた。しかし8世紀に中小農民の没落と流亡が進んで戸籍が実態と合わなくなり、府兵制も募兵制に代わった。安史の乱で財政が危機に陥ると、780年に両税法を採用し、現住地で土地・資産に応じて課税する方式に転換した。
例2「明清の税制と銀」(130字程度):明の後半、日本銀やアメリカ大陸の銀が流入して銀の使用が広がると、土地税や労役を一本化して銀で納める一条鞭法が普及した。清では1712年に丁銀の額を固定したうえで、丁銀を地銀に繰り込む地丁銀制が広がり、人頭税は土地税に吸収された。
| テーマ | 入れるべき用語 |
|---|---|
| 均田制の成立 | 北魏、孝文帝、三長制、奴婢・耕牛への支給 |
| 唐の税制の転換 | 均田制、租調庸制、府兵制、流亡、募兵制、節度使、安史の乱、楊炎、両税法 |
| 宋の社会と改革 | 形勢戸、佃戸、官戸、王安石、青苗法、募役法、旧法党 |
| 明清の税制と銀 | 里甲制、賦役黄冊、魚鱗図冊、銀の流入、一条鞭法、張居正、地丁銀制 |
確認問題
中国の土地・税制に出てきた用語を、一問一答で確かめましょう。答えは本文で太字や表に出てきた語句ばかりです。まず答えを隠したまま解き、あやふやだった問題には△を付けて、あとで該当する節を読み返してください。
- 1紀元前7年、前漢の哀帝の時代に出された、土地や奴婢の所有を制限しようとした法は?
- 2反対が強く、実施されなかった新を建て、田を王田と呼んで売買を禁じた人物は?
- 3周の制度を理想とした復古的な改革で、失敗に終わった485年に均田制が始まった北魏の皇帝は?
- 4奴婢や耕牛にも土地が支給された北魏で、村落を隣・里・党に組織して戸籍と徴税を担わせた制度は?
- 5均田制の翌年の486年に定められた唐で、成年男子に穀物・絹・労役などを課した税制を何という?
- 6均田制で土地を受けた農民が対象唐で、農民を兵士とした兵農一致の兵制は?
- 7749年に停止され、募兵制に移った范陽・平盧・河東の3つの節度使を兼ね、755年に反乱を起こした人物は?
- 8反乱は763年まで続いた780年に両税法を建議した唐の宰相は?
- 9徳宗の時代に採用された両税法では、1年に何回に分けて税を納めさせた?
- 10土地・資産に応じて課税した宋代に、地主の土地を借りて耕した小作人を何という?
- 11新しい地主層は形勢戸王安石の新法のうち、農民に低い利息で穀物や銭を貸した法は?
- 12商人に貸すのは市易法明で作られた、土地の形や面積、持ち主を記した土地台帳は?
- 13戸籍・租税台帳は賦役黄冊明で、110戸を1里として村を組織した制度は?
- 141381年に定められた明で、土地税や労役をまとめて銀で納めさせた制度は?
- 15張居正の土地の測量のあと全国に広がった清で、丁銀を地銀に繰り込んで一本化した制度は?雍正帝の時代に全国に広がった
数日あけてから、もう一度この一覧に戻ってきてください。
ほかの時代の用語も確かめたいときは、世界史一問一答で地域や時代を混ぜて解いてみてください。
世界史 中国の土地・税制史の内容をまとめて復習できる解説つきの問題集(PDF・全19問)を用意しました。下のファイルをダウンロードして、印刷して使ってください。
テーマ史の勉強の進め方
中国史の通史では、税制の話が王朝ごとに少しずつ出てくるため、それぞれを別々の知識として覚えがちです。通史をひととおり終えた段階で、この記事のように税制だけを抜き出して並べ直すと、「課税の対象が人から土地へ、納め方が現物から銀へ」という一本の流れとして頭に残ります。
| 段階 | やること | 目安 |
|---|---|---|
| 1 | 通史で、王朝ごとの土地制度と税制を一度学ぶ | 中国史が一周したあと |
| 2 | 年表を見ながら、王朝と制度の組み合わせを声に出して確認する | 1回10〜15分 |
| 3 | 両税法・一条鞭法・地丁銀制の比較表を隠し、白紙に再現する | 書けなかった欄に印をつける |
| 4 | 論述の要点を見ずに、150字で因果をまとめてみる | 数日おいて繰り返す |
中国の税制は、官吏登用の制度や、銀をめぐる東西の交易ともつながっています。関連するテーマ史とあわせて読むと、中国史の全体像がつかみやすくなります。
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まとめ
中国の土地・税制は、国家が農民に土地を割り当てて人に課税する均田制の時代から、人々が持つ土地や資産に課税する両税法の時代へ、さらに銀で一本化して納める一条鞭法・地丁銀制の時代へと移り変わりました。どの転換にも、前の制度が社会の変化に合わなくなったという理由があります。
| 段階 | 中心となる制度 | 次の段階へ移った理由 |
|---|---|---|
| 人に課税 | 均田制・租調庸制・府兵制(北魏〜唐) | 農民の流亡で戸籍が実態と合わなくなり、安史の乱で財政が危機に陥った |
| 土地・資産に課税 | 両税法(唐)、新法(北宋)、里甲制(明) | 銀の流入で、負担をまとめて銀で納める方法が広がった |
| 銀で一本化 | 一条鞭法(明)、地丁銀制(清) | 丁銀が地銀に繰り込まれ、土地への課税にほぼまとまった |
最初に年表の「ポイント」の列で流れをつかみ、次に比較の表で3つの税制の違いを確かめ、最後に論述の要点を自分の言葉で書いてみてください。王朝と制度の組み合わせを確実に言えるようになれば、中国の税制は得点源になります。








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