教育史は、「だれが、どこで、何を学んだのか」を時代ごとに追いかけるテーマ史です。古代の大学・国学から、江戸時代の藩校や寺子屋、明治の学制と教育勅語、戦後の教育基本法まで、学びの場は社会のしくみに合わせて姿を変えてきました。
入試では、教育機関と設けた人物・場所の組み合わせがよく問われます。金沢文庫と足利学校の取り違え、私塾と開いた人物のずらし、学制・教育令・改正教育令の順序などは、正誤問題で何度も使われてきた論点です。論述では「なぜ制度が改められたのか」という理由の説明が求められます。
この記事では、全体の流れを年表で確かめたあと、時代ごとの教育機関と制度の変化を表にまとめます。通史で別々に覚えた知識を、1本の流れとしてつなぎ直すつもりで読んでください。

最後にこの記事の内容をまとめた確認プリントもあります!最後まで読み、プリントで復習してこの範囲を完璧にしましょう!
| この記事で分かること | 該当する節 |
|---|---|
| 古代から戦後までの教育の流れ | まず全体像 |
| 教育機関が生まれた理由と、次の時代への影響 | 時代ごとに詳しく見る |
| 幕府・藩・庶民の教育機関の違い、近代の制度の違い | 比べて覚える |
| 正誤問題でねらわれる組み合わせと順序 | 入試で狙われるポイント |
| 論述で使える要点と用語 | 論述で使える要点 |
まず全体像:教育の流れを一枚でつかむ
日本の教育史は、学ぶ人の広がりで見ると整理しやすくなります。古代は役人を育てる貴族中心の教育、中世は寺院や武士の文庫・学校、江戸時代は武士の藩校と庶民の寺子屋の並立、近代は国家がすべての国民を学校に通わせる段階、戦後は民主主義にもとづく教育の段階です。
下の年表は、それぞれの段階の節目になった出来事を並べたものです。年号よりも先に「ポイント」の列を読み、流れの向きをつかんでください。


| 時代 | 年号 | できごと | ポイント |
|---|---|---|---|
| 飛鳥 | 701年 | 大宝律令 | 中央に大学、諸国に国学を置く |
| 平安 | 821年 | 藤原冬嗣が勧学院を設ける | 藤原氏の大学別曹 |
| 平安 | 828年 | 空海が綜芸種智院を開く | 庶民にも学ぶ場を開く |
| 室町 | 1439年 | 上杉憲実が足利学校に書籍を寄進 | 永享年間に足利学校を再興 |
| 江戸 | 1630年 | 林羅山が上野忍ヶ岡に家塾を開く | のちの昌平坂学問所のもと |
| 江戸 | 1790年 | 寛政異学の禁 | 聖堂の学問所で朱子学以外の講義を禁止 |
| 江戸 | 1797年 | 昌平坂学問所が幕府直轄に | 林家の家塾から幕府の学校へ |
| 江戸 | 1838年 | 緒方洪庵が大坂に適塾を開く | 蘭学(洋学)の私塾 |
| 明治 | 1872年 | 学制 | 国民皆学をめざす |
| 明治 | 1879年 | 教育令 | 運営を地方にまかせる |
| 明治 | 1880年 | 改正教育令 | 国の統制を強める |
| 明治 | 1886年 | 学校令 | 森有礼文相が学校体系を整える |
| 明治 | 1890年 | 教育勅語 | 忠孝を教育の柱とする |
| 明治 | 1907年 | 義務教育を6年に延長 | 小学校令の改正 |
| 大正 | 1918年 | 大学令 | 公立・私立大学を認める |
| 昭和 | 1941年 | 国民学校令 | 戦時体制の初等教育 |
| 昭和 | 1947年 | 教育基本法・学校教育法 | 6・3・3・4制が始まる |
| 昭和 | 1948年 | 教育委員会法 | 教育委員は住民の公選 |
時代ごとに詳しく見る
ここからは時代を10に分けて、教育機関の中身と、それが生まれた理由、のちの時代への影響を順に確かめます。各時代で「だれのための学校か」を意識すると、似た名前の機関を区別しやすくなります。
古代:律令の大学と国学
701年の大宝律令では、都に大学、地方の国ごとに国学を置くことが定められました。どちらも律令国家を動かす役人を育てるための学校です。大学は式部省が管轄し、儒教の経典を学ぶ明経道を中心に教えました。
| 項目 | 大学 | 国学 |
|---|---|---|
| 置かれた場所 | 都(中央) | 諸国(地方) |
| 管轄 | 式部省 | それぞれの国 |
| 主な学生 | 5位以上の貴族の子弟など | 郡司の子弟 |
| 教えた内容 | 儒教の経典(明経道)が中心 | 儒教の経典など |
| 目的 | 役人の養成 | 役人の養成 |
大学の学生は、試験に合格すると位階を得て役人になれました。ただし、家柄の高い貴族の子弟で大学に学ぶ者はまれで、実際には中下級の役人を育てる場にとどまりました。平安時代には、明経道のほか、中国の歴史書や詩文を学ぶ紀伝道(文章道)、法律の明法道、算道の四道が整いました。
平安時代:大学別曹と綜芸種智院
平安時代の前期になると、有力な氏族が一族の学生のために、大学の近くに寄宿舎を設けるようになりました。これが大学の付属施設として公認されたものを大学別曹といいます。学生は別曹に住みながら大学に通い、学費の援助も受けました。
| 大学別曹 | 設けた氏族・人物 | 覚え方のヒント |
|---|---|---|
| 弘文院 | 和気氏(和気広世) | 大学別曹のなかで最も古い |
| 勧学院 | 藤原氏(藤原冬嗣、821年) | 大学の南にあり、南曹とも呼ばれた |
| 学館院 | 橘氏(橘嘉智子と橘氏公) | 嵯峨天皇の皇后が関わった |
| 奨学院 | 在原行平(881年) | 皇族出身の氏族の子弟が寄宿 |
一方、828年に空海が京都に開いた綜芸種智院は、身分の制約で大学や国学に入れない人々のための学校でした。仏教と儒教をあわせて教えた点が特徴ですが、空海の死後まもなく廃絶しました。一族のための別曹と、庶民に開かれた綜芸種智院の違いは、正誤問題の定番です。
やがて学問を特定の家が受けつぐ傾向が強まり、教官の地位も世襲されるようになりました。こうした変化と大学別曹の隆盛のなかで、律令の大学そのものはしだいに衰えていきます。
鎌倉〜室町時代:金沢文庫・足利学校と寺院での学び
鎌倉時代の中ごろ、北条(金沢)実時は、武蔵国六浦荘金沢(現在の横浜市金沢区)の居館に金沢文庫を設けました。和漢の書物を集めた文庫で、実時の子や孫が蔵書を増やし、北条氏の滅亡後は隣接する称名寺が管理しました。設けられた時期ははっきりせず、1275年ごろとされることが多いです。
下野国(現在の栃木県)の足利学校は、いつ、だれが創設したのかについて諸説があります。15世紀前半の永享年間に、関東管領の上杉憲実が鎌倉の円覚寺から僧の快元を招いて庠主(校長)とし、学校を再興しました。1439年には、宋の時代に刊行された貴重な書籍を寄進しています。


| 項目 | 金沢文庫 | 足利学校 |
|---|---|---|
| 場所 | 武蔵国金沢(横浜市) | 下野国足利(栃木県) |
| 関わった人物 | 北条(金沢)実時が設ける | 上杉憲実が再興する |
| 性格 | 和漢の書物を集めた文庫 | 儒学などを学ぶ学校 |
| 時期 | 鎌倉時代の中ごろ | 室町時代の永享年間に再興 |
足利学校では儒学や易学が教えられ、16世紀にはキリスト教の宣教師がその名をヨーロッパに伝えました。また中世の寺院では僧侶以外の人々への教育も行われ、これがのちの寺子屋の源流とされています。室町時代の前期にできた往来物(手紙の形をとった初歩の教科書)の『庭訓往来』は、江戸時代になっても寺子屋で広く使われました。
江戸時代(1):幕府の学問所と藩校・郷学
江戸幕府は、儒学のなかでも朱子学を正学として重んじました。1630年、林羅山が幕府から上野忍ヶ岡の土地を与えられて家塾を開き、2年後には孔子をまつる聖堂も建てられました。1690年、5代将軍徳川綱吉はこの聖堂を湯島に移し、羅山の孫の林鳳岡(信篤)を大学頭に任じました。以後、大学頭は林家が代々受けつぎます。
やがて古学派や折衷学派が広まり、林家の朱子学はふるわなくなりました。寛政の改革を進めた老中松平定信は、1790年に寛政異学の禁を出し、聖堂の学問所で朱子学以外の講義を禁じました。さらに1797年、学問所は林家の家塾から切り離され、幕府直轄の昌平坂学問所となりました。


| 年 | できごと | 意味 |
|---|---|---|
| 1630年 | 林羅山が上野忍ヶ岡に家塾を開く | 林家の私的な塾として出発 |
| 1690年 | 徳川綱吉が聖堂を湯島に移す | 林鳳岡が大学頭に。官学への道 |
| 1790年 | 寛政異学の禁 | 学問所で朱子学以外の講義を禁止 |
| 1797年 | 昌平坂学問所が幕府直轄に | 林家の塾から幕府の学校へ |
寛政異学の禁が禁じたのは、あくまで幕府の学問所での講義です。全国の学者に朱子学以外の研究を禁じたわけではないので、正誤問題では範囲に注意しましょう。
諸藩も、藩士の子弟を教育するために藩校(藩学)を設けました。教育の中心は儒学でしたが、武芸をあわせて教える藩校も多く、幕末には洋学や医学を取り入れるところも増えました。
藩校とも寺子屋とも異なる学校に、郷学(郷校)があります。藩士の子弟向けのものと庶民向けのものがあり、藩や民間の有志が設けました。17世紀後半に岡山藩主の池田光政が設けた閑谷学校は、庶民の子弟も受け入れた郷学の代表例です。
江戸時代(2):寺子屋と私塾の広がり
江戸時代の中ごろからは、庶民の子どもが通う寺子屋が各地に広まりました。日々の暮らしや仕事に必要な読み書きを身につけたいという庶民の求めが高まったためです。僧侶・武士・神官・医者などが師匠となり、往来物を手本に、読み・書き・そろばんを教えました。


寺子屋より高いレベルの学問を教えたのが私塾です。学者が自宅などを教場とし、儒学・国学・洋学など、それぞれの学問を教えました。身分にとらわれずに学べる私塾も多く、幕末から明治に活躍する人材が育ちました。
| 私塾など | 開いた人物・設けた人々 | 場所 | 特徴 |
|---|---|---|---|
| 懐徳堂 | 大坂の町人5人が出資(1724年) | 大坂 | 1726年に幕府の公認を受ける |
| 咸宜園 | 広瀬淡窓(1817年) | 豊後日田 | 身分や年齢を問わず入門を認める |
| 鳴滝塾 | シーボルト(1824年) | 長崎郊外 | 診療所をかねた蘭学塾 |
| 適塾 | 緒方洪庵(1838年) | 大坂 | 蘭学(洋学)を広く教えた |
| 松下村塾 | 吉田松陰が叔父の塾を受けつぐ | 長州の萩 | 高杉晋作や伊藤博文らが学ぶ |
幕府も、外交の必要から洋学の研究と教育に乗り出しました。1855年に設けられた洋学所は、翌1856年に蕃書調所と改められ、のちに開成所と名を変えます。この流れは、明治時代の東京大学の起源の一つにつながっていきます。
明治前期:学制から教育令・改正教育令へ
近代化を急ぐ明治政府は、その基本となる手段の一つとして、1872年に学制を公布しました。同時に出された太政官布告(学事奨励に関する被仰出書)は、身分や男女の区別なくすべての人が学ぶべきだと説き、村に学ばない家が1軒もないようにするという国民皆学の目標をかかげました。学問は個人の立身出世のためのものだとされた点も特徴です。
| 学制の区分 | 数 | 置く予定の学校 |
|---|---|---|
| 大学区 | 全国を8つに分ける | 大学を1校ずつ(計8校) |
| 中学区 | 1大学区を32に分ける | 中学校を1校ずつ(計256校) |
| 小学区 | 1中学区を210に分ける | 小学校を1校ずつ(計5万3,760校) |
こうした学区制はフランスの制度にならったものです。しかし、学校の建設費や授業料は住民の負担とされたうえ、教える内容も人々の暮らしとかけ離れていたため、各地で不満が高まりました。
そこで政府は1879年に学制を廃止し、教育令を出しました。文部大輔の田中不二麿が中心となり、アメリカの制度を手本にした法令で、学校の運営を地方にまかせ、就学の義務もゆるめました。そのため「自由教育令」とも呼ばれます。
ところが、教育令のもとでは学校の設置や就学が後退する地方が多く、批判を受けました。翌1880年の改正教育令では、文部省や府知事・県令の監督の権限を強め、学校の設置と就学の義務を再び厳しくしました。画一的な学制から自由な教育令へ、そして統制を強める改正教育令へという振れ幅を、順序とともに押さえましょう。




明治中期:森有礼の学校令と教育勅語
1885年に内閣制度ができると、森有礼が初代の文部大臣となりました。森は1886年に、学校の種類ごとに定めた一連の法令を出しました。これをまとめて学校令といい、戦前の学校制度の骨組みになりました。
| 学校令(1886年) | 主な内容 |
|---|---|
| 帝国大学令 | 東京大学(1877年創立)を帝国大学とし、国家に必要な学問を教える場とした |
| 師範学校令 | 教員を養成する師範学校を、高等と尋常の2種類とした |
| 中学校令 | 中学校を高等中学校と尋常中学校の2段階とした |
| 小学校令 | 尋常・高等の各4年とし、尋常小学校の4年間を義務とした |
同じころ、教育の中心に道徳を置こうとする動きも強まりました。1879年の教学聖旨は、仁義忠孝を中心とする徳育を教育の根本とするよう説いていました。こうした流れを受け、山県有朋内閣のもとで井上毅や元田永孚が起草にあたり、1890年に教育勅語(教育ニ関スル勅語)が出されました。
教育勅語は、天皇への忠と親への孝を国民道徳の中心にすえ、国の危機には天皇と国家のために力を尽くすことを求めました。写しが全国の学校に配られ、儀式で読み上げられるようになりました。順序は、学校令(1886年)のあとに教育勅語(1890年)です。
明治後期〜大正:義務教育の延長と大学令
1900年の小学校令の改正で、義務教育の小学校では原則として授業料を取らないことになりました。1903年には小学校の教科書を文部省が作る国定制度が定められ、翌1904年から使われました。前年の教科書をめぐる汚職事件(教科書疑獄事件)が、国定化のきっかけになりました。
| 年 | できごと | 押さえたい点 |
|---|---|---|
| 1886年 | 小学校令 | 尋常小学校4年間の就学を義務とした |
| 1900年 | 小学校令の改正 | 義務教育の授業料を原則として廃止 |
| 1903年 | 小学校の教科書の国定制度 | 使用が始まったのは1904年 |
| 1907年 | 小学校令の改正 | 義務教育を4年から6年に延長 |
| 1918年 | 大学令 | 公立・私立大学や単科大学を認めた |
1907年には義務教育が6年に延長されました。このころには小学校の就学率が90%を超え、ほとんどの子どもが小学校に通うようになっていました。また1900年には、津田梅子が女子英学塾(のちの津田塾大学)を開くなど、女子の高等教育への道も開かれはじめます。
大正時代には、第一次世界大戦後の教育のあり方を話し合うため、1917年に内閣直属の臨時教育会議が置かれました。その答申を受けて1918年に大学令が出され、それまで帝国大学に限られていた大学として、公立・私立の大学や、学部が1つだけの単科大学も認められました。
昭和戦前・戦中:国民学校と戦時下の教育
戦時体制に合わせるため、1941年に国民学校令が出され、小学校は国民学校に改められました。初等科6年・高等科2年からなり、「皇国民の錬成」を目的とする国家主義的な教育が行われました。義務教育を8年にする計画もありましたが、戦局の悪化で実施は見送られました。
戦争の末期には、教育そのものが戦争に巻きこまれました。1943年には文科系の学生の徴兵猶予が停止されて学徒出陣が始まり、1944年の夏からは都市の国民学校初等科の児童を地方へ移す集団疎開(学童疎開)が進められました。
戦後:教育基本法・学校教育法と教育委員会
敗戦後、GHQの要請で1946年にアメリカ教育使節団が来日し、6・3制の学校制度や、住民の選挙で選ぶ教育委員会などを勧告しました。これを受けて1947年に教育基本法が制定され、日本国憲法の精神にもとづいて、教育の機会均等、9年間の義務教育、男女共学などが定められました。
同じ1947年の学校教育法では、小学校6年・中学校3年・高等学校3年・大学4年の6・3・3・4制が採用されました。戦前は学校ごとの勅令で定めていた制度を、国会が定める法律にまとめた点も大きな変化です。
| 項目 | 戦前(教育勅語の時代) | 戦後(教育基本法の時代) |
|---|---|---|
| 教育の理念 | 教育勅語(忠孝の道徳) | 教育基本法(憲法の精神) |
| 学校制度の定め方 | 学校令などの勅令 | 学校教育法などの法律 |
| 義務教育 | 6年(1907年から) | 9年(小学校・中学校) |
| 教科書 | 小学校は国定教科書 | 検定教科書へ移行 |
| 大学 | 帝国大学、1918年から公立・私立大学も | 4年制の新制大学 |


1948年には教育委員会法が出され、教育委員は住民の選挙で選ばれることになりました。しかし1956年に新しい法律(地方教育行政の組織及び運営に関する法律)ができ、地方公共団体の長が議会の同意を得て任命する任命制に改められました。
また1948年6月には、教育勅語について、衆議院が排除を、参議院が失効の確認を決議しました。両院で決議の言葉が異なる点は、細かいながら問われることがあります。
比べて覚える
江戸時代の教育機関は、「だれが設けたか」と「だれが学んだか」の2つの軸で整理すると、混同しにくくなります。幕府・藩・民間のどれが設けたのか、武士と庶民のどちらを主な対象としたのかを表で確かめましょう。


| 教育機関 | 設けた者 | 主な対象 | 代表例 |
|---|---|---|---|
| 昌平坂学問所 | 幕府 | 幕臣など | 湯島の学問所 |
| 藩校(藩学) | 藩 | 藩士の子弟 | 各藩の藩校 |
| 郷学(郷校) | 藩や民間の有志 | 藩士の子弟や庶民 | 閑谷学校 |
| 私塾 | 学者個人など | 身分を問わないものが多い | 咸宜園・適塾・松下村塾 |
| 寺子屋 | 僧侶・武士・神官・医者など | 庶民の子ども | 各地の寺子屋 |
次に、明治前期の3つの法令を比べます。「画一的→自由→統制」という振れ幅と、それぞれが手本にした国や中心人物まで言えるようにしておきましょう。
| 項目 | 学制(1872年) | 教育令(1879年) | 改正教育令(1880年) |
|---|---|---|---|
| 特徴 | 全国を学区に分ける画一的な計画 | 運営を地方にまかせる | 国と府県の監督を強める |
| 手本・中心人物 | 学区制はフランスにならう | アメリカの制度、田中不二麿 | 教育令の行きすぎを修正 |
| 就学の扱い | 国民皆学をめざす | 就学の義務をゆるめる | 就学の義務を再び厳しく |
| 結果 | 負担が重く不満が高まる | 学校の設置や就学が後退 | のちの学校令につながる |
入試で狙われるポイント
教育史の正誤問題では、機関と人物・場所の組み合わせや、似た法令の順序をずらした選択肢がよく見られます。左の列のような文を見たら、右の列の正しい内容がすぐに浮かぶよう練習しましょう。
| 誤りやすい記述 | 正しい内容 |
|---|---|
| 勧学院は橘氏が一族の学生のために設けた | 勧学院は藤原氏(藤原冬嗣)。橘氏は学館院 |
| 綜芸種智院は貴族の子弟だけを対象とした | 大学や国学に入れない庶民のために空海が開いた |
| 金沢文庫は上杉憲実が下野国に設けた | 金沢文庫は北条(金沢)実時が武蔵国金沢に設けた。上杉憲実は足利学校を再興 |
| 寛政異学の禁で、全国の学者の朱子学以外の研究が禁じられた | 禁じたのは聖堂の学問所での朱子学以外の講義 |
| 咸宜園は緒方洪庵が大坂に開いた | 咸宜園は広瀬淡窓が豊後日田に開いた。適塾が緒方洪庵(大坂) |
| 教育令はフランスの制度を手本とし、統制を強めた | 教育令はアメリカの制度を手本とし、運営を地方にまかせた |
| 教育勅語が出されたあとに学校令が出された | 学校令(1886年)が先で、教育勅語(1890年)があと |
| 教育委員会は発足したときから任命制だった | 1948年は公選制で始まり、1956年に任命制に変わった |
順序の問題に備えて、「大学・国学→大学別曹・綜芸種智院→金沢文庫・足利学校→林家の家塾→寛政異学の禁→学制→教育令→改正教育令→学校令→教育勅語→大学令→国民学校令→教育基本法」という大きな並びを、ひと息で言えるようにしておきましょう。
論述で使える要点
教育史の論述では、制度の名前を並べるだけでは得点になりません。前の制度のどこに問題があり、次の制度で何が変わったのかを、因果の言葉でつなぐことが大切です。よく問われる2つのテーマで、要点の例を示します。
例1「学制から改正教育令への変化」(150字程度):学制は全国を学区に分けて国民皆学をめざしたが、学校の費用や授業料が住民の負担となり、内容も生活とかけ離れて不満が高まった。そこで政府はアメリカの制度を参考に、運営を地方にまかせる教育令を出した。しかし学校の設置や就学が後退したため、改正教育令で国と府県の監督を強めた。
例2「江戸時代の庶民教育の特色」(120字程度):江戸時代の中ごろから、読み書きが暮らしに欠かせなくなり、庶民の子どもが通う寺子屋が広まった。往来物を手本に読み・書き・そろばんを学んだ。さらに身分を問わない私塾や、庶民も受け入れた閑谷学校などの郷学も設けられた。
| テーマ | 入れるべき用語 |
|---|---|
| 古代の教育 | 大宝律令、大学、国学、式部省、郡司の子弟、大学別曹、綜芸種智院 |
| 中世の教育 | 金沢文庫、北条(金沢)実時、足利学校、上杉憲実、往来物 |
| 江戸時代の教育 | 林羅山、寛政異学の禁、昌平坂学問所、藩校、郷学、寺子屋、私塾 |
| 近代の教育制度 | 学制、教育令、改正教育令、学校令、教育勅語、義務教育の延長 |
| 戦後の教育改革 | アメリカ教育使節団、教育基本法、学校教育法、6・3・3・4制、教育委員会 |
確認問題
ここまでの内容を一問一答で確かめましょう。答えはすべてこの記事の中で説明した用語です。答えを隠して口に出してから、解説で確認してください。
- 1大宝律令で、諸国に置かれ郡司の子弟が学んだ学校は?都に置かれたのは大学で、式部省が管轄した
- 2821年に藤原冬嗣が設けた、藤原氏の大学別曹は?橘氏は学館院、和気氏は弘文院
- 3828年に空海が京都に開き、庶民にも学ぶ場を開いた学校は?仏教と儒教をあわせて教えた
- 4北条(金沢)実時が武蔵国金沢に設けた文庫は?和漢の書物を集め、のちに称名寺が管理した
- 5永享年間に上杉憲実が再興した、下野国の学校は?円覚寺の僧の快元を庠主に招いた
- 6室町時代の前期にでき、江戸時代の寺子屋でも使われた往来物は?手紙の形をとった初歩の教科書
- 71790年、聖堂の学問所で朱子学以外の講義を禁じた政策は?老中松平定信が寛政の改革で出した
- 81797年に幕府直轄となった学問所は?林羅山の家塾がもとになった
- 917世紀後半に岡山藩主池田光政が設けた郷学は?庶民の子弟も受け入れた
- 10広瀬淡窓が豊後日田に開いた私塾は?身分や年齢を問わず入門を認めた
- 111838年に緒方洪庵が大坂に開いた蘭学の塾は?長崎のシーボルトの塾は鳴滝塾
- 121872年に公布され、国民皆学をめざした教育法令は?学区制はフランスの制度にならった
- 131879年に出された、アメリカの制度を手本とした教育法令は?翌1880年の改正教育令で統制を強めた
- 141886年に学校令を出した初代文部大臣は?帝国大学令・師範学校令・中学校令・小学校令
- 151947年に制定され、6・3・3・4制を採用した法律は?同じ年に教育基本法も制定された
数日あけてから、もう一度この一覧に戻ってきてください。
ほかの時代の用語も確かめたいときは、日本史一問一答で地域や時代を混ぜて解いてみてください。
日本史 教育史の内容をまとめて復習できる解説つきの問題集(PDF・全19問)を用意しました。下のファイルをダウンロードして、印刷して使ってください。
テーマ史の勉強の進め方
教育史は、文化史・政治史・社会史のどれにも顔を出すため、通史で学ぶと知識がばらばらになりがちです。大学別曹は平安文化、寛政異学の禁は寛政の改革、学制は明治初期の諸改革と、それぞれ別の単元で出てきます。通史をひととおり終えてから教育史で横につなぐと、「学ぶ人がしだいに広がっていく」という大きな筋が見えてきます。
| 段階 | やること | 目安 |
|---|---|---|
| 1 | 通史の教科書で、各時代の教育機関と制度を一度学ぶ | 通史を一周したあと |
| 2 | 年表を見ながら、だれのための学校かを口で説明する | 1回10〜15分 |
| 3 | 私塾や大学別曹の表を隠して、人物と場所を書き出す | あいまいな所に印をつける |
| 4 | 確認問題と論述の要点で、用語と因果を確かめる | 日をあけて繰り返す |
教育史は、宗教史や外交史とつながる場面も多い分野です。綜芸種智院や足利学校は仏教史と、蘭学の塾やお雇い外国人は西洋との交流史と重ねると、覚える量のわりに理解が深まります。
通史とテーマ史をどの順番で進めればいいか、独学で間に合うかの判定方法は、日本史は独学で間に合う?で詳しく解説しています。論述の添削を頼める家庭教師やオンライン塾の選び方もまとめています。
関連するテーマ史
教育のしくみは、宗教・法制度・女性の社会進出・外交と深く結びついています。教育史とあわせて読むと理解が深まるテーマ史を紹介します。
| テーマ史 | 教育史とのつながり |
|---|---|
| 日本史のテーマ史:仏教史 | 綜芸種智院や寺院での学び、寺子屋の源流が分かる |
| 日本史のテーマ史:法制史 | 律令の大学・国学や、近代の法令と教育の関係が分かる |
| 日本史のテーマ史:女性史 | 女子英学塾など、女子教育の広がりが分かる |
| 日本史のテーマ史:外交史(欧米) | 蘭学の塾や洋学の研究の背景が分かる |
| 日本史のテーマ史:外交史(中国) | 唐の制度にならった古代の学問と留学の背景が分かる |
ほかのテーマも、日本史のテーマ史の一覧でまとめて確認できます。
まとめ
日本の教育は、役人を育てる古代の大学・国学から始まり、中世の文庫や寺院、江戸時代の藩校・寺子屋・私塾を経て、明治の学制で国民すべてを対象とする学校制度へと進みました。戦後は教育勅語に代わって教育基本法が教育の柱となりました。
| 段階 | 中心となる教育機関・制度 | 次の段階へのつながり |
|---|---|---|
| 古代 | 大学・国学、大学別曹 | 学問の家の世襲が進み、大学は衰える |
| 中世 | 金沢文庫、足利学校、寺院 | 寺院での学びが寺子屋の源流となる |
| 江戸時代 | 昌平坂学問所、藩校、郷学、寺子屋、私塾 | 武士と庶民の学びの広がりが近代の学校の土台に |
| 明治〜戦前 | 学制、学校令、教育勅語、国民学校 | 国家主義の教育が戦争への動員につながる |
| 戦後 | 教育基本法、学校教育法、教育委員会 | 民主主義と機会均等にもとづく教育へ |
まずは年表で「だれのための学校か」の変化をつかみ、次に比較の表で似た機関を区別し、最後に論述の要点を自分の言葉で書き直してみてください。人物と場所の組み合わせまで言えるようになれば、教育史は確実な得点源になります。














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